2018年7月31日火曜日

人間主義

ヒューマニズムは非常に深いし、感動するものですが、どこか人間を肯定しているような気がします。

人間を否定したいわけでもなく、肯定したいのでもなく、真理として、人間は罪人です。

そもそも罪人だから、人としての存在を肯定しても、その罪の部分を含めて肯定するわけにはいかないと思うんです。

人間の愛や心は信じるに値するかもしれません。でも完璧ではありません。

パスカルも言ってたように、人は人の惨めさや汚さを直視できない弱さがあると思います。

三浦綾子の本を読めばその気持ちもわかると思います。

人の心はとにかく汚れていると思います。

感動する話や人間の愛に打たれることはあります。でも、人間は罪人です。でも、人の心は人に見せたくないような汚い思いで溢れています。

その人間の罪の部分が人としてのあらゆる問題の根源なのに、善らしきもの部分ばかりを誇張して人間の罪を分からなくするから、傷つく人も増えるのだと思います。


人間絶対主義というのは、想像を絶するほどの高慢の上に成り立っているのだなとすごく今思いました。

神が僕たちを愛してくれたのは、神が僕たちを作ったからで、1%も神の前に誇れるものはない。

人間を信じたい気持ちを否定したくはないです。でも、真実はどちらかです。

この罪人のために身代わりに罪を引き受けたイエス様の愛というのは、なんて計り知れないのだろうと改めて思います。

倫理??

倫理・・・
①人間生活の秩序つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道
②倫理学の略

倫理学・・・
人間の行為や社会関係を支配する道徳について、その起源・発達・本質・意味を研究する学問。


高校の文系では倫理を習います。言い換えると哲学のようなものです。

倫理は上の辞書の言葉によると〈人間の実践すべき、「踏み行うべき」規範の筋道〉です。

これは、あくまで、「踏み行うべき」ものの筋道であって、踏み行わなければ、本末転倒ですよね。

さて、倫理や哲学に興味をもち始める人たちがぼくの年ごろには多いと思いますが、少し気になることがあります。

一人一人が哲学や倫理に熱心になるのは構いませんが、その理論や思想を「理解する」ことで「人としての格」が上がるわけではないと思います。

場合によれば上がるかもしれません。でも、「理解した」から人より偉いとか、人としての根本を知ってるのは俺の方だといって、偉そぶりを〈たとえ心の中ででも〉するのであれば、それは倫理から外れています。

数学や英語とはちょっと違って、倫理の内容はもっと、人としての根本を扱うものだからこそ、テストの点で測るのはあくまで知識だけであって、その人の人間性を測るものであってはいけないと思うんですよね〜。うんうん。



そして、倫理の教科書や図説には沢山の哲学者たちがありとあらゆる思想を述べていますが、それを一生懸命に読むことは構わないのだけど、でもそれは人の考えの受け売りであって、自分で考えて、自分自身が「人としての根本」と向き合わなければ、意味がないと思うんですよね。

受身で取ってつけたように人の考えを、しかも「自分と共感するものだけ」取り入れていては深さはないだろうし、それは自分の都合のいい方向に生きていくのを加速させてしまうだけのような気がします。

これも数学や英語とは違って倫理にはこれといった答えは書いてないから、教科書が全てではないし、あくまで自発的に考えるものだと思います。

そして、「神の存在」には〈必ず〉答えがあるわけで、いるなら人形のように飾られてるだけではなく、〈意志〉というものがあるわけで、でも人間は神の意志ではなく、自分の意志しか考えていない。そして神がいるならそこには〈人格〉があるわけで、その人間をどう思って、どうしようとしているのかという真実があるわけです。

そして、哲学者の中には死と向き合っている人もいますが、ほとんどの人たちは「どのように生きるか」を考えて、死後のことなんて誰も考えない、もしくは考えてもどうにもならんさという。でもそこにも必ず答えがあります。

人それぞれが正解じゃ困るんですよ。人それぞれじゃ困る!!!!

一つしかない答えというものがあるからです。


だから、共感する哲学だけを取り込むのではなく、かと言って共感しないのを取り込むのでもなく、何が真理なのか、何が本当の答えなのかを知りたいと思う心がまず必要だと思うんですよね。その上で倫理なり哲学書なり読めばいいと思います。


自分の都合のいい真実ではなく、真実を真実として求める心が必要ですよね。

隣女ではなく隣人

↓のブログで、イエス様は本当の意味で隣女になったと書いてますが、隣人ですね。すいません。(笑)

心が通じる

何と、人間の心というものは、通じ合わないものだろう。(中略)考えてみると、「好き」ということも、「嫌い」ということと同じだけ誤解の上に成り立つ感情のような気がする。

「ぼくはこう思ってる、口から出た言葉の数だけ、誤解も多くなるとね。」


どちらも三浦綾子の本の言葉です。積み木の箱(上)と裁きの家です。

簡単に心と心のつながりというけど、言葉を交わさずに通じ合えてると思うのは、互いの都合のいい誤解の重なりで、でも言葉を使うほど遠のいていくような気もします。

「だって、人間はね、誰も相手の言うことなんか、聞こうとしてやしないよ。対話と見せかけて、結局は、自分の言いたいことを押しつけてくるだけだよ」(中略)「そうだよ。誰もがね、お前はそう言うが、違うぞと言った顔つきで話をしているよ。対話なんかないよ、あるのはモノローグだけさ」  (裁きの家)

男も女も、結局は自分が理解「される」ことばかり求めていて、相手を理解しようとすることが少ないのかなー、っと思いました。

自分が主眼で、果たして相手は自分の心に気がつくのか、という観点から心のつながりを推し量るけど、実はそうではなく、理解されることよりも理解することにもっと大きな意味があるのかなーと思いました。


イエス様は地上に理解者はいませんでした。バプテスマのヨハネも処刑されたし、、、

弟子たちは何も理解しませんでした。

それでもイエス様は弟子や罪人と共に食事をし、話を聞いていたのかなーって思います。

理解し、本当の意味で隣女になったんだと思います。

「解決がなくても、寄り添うことはできる」

なんて言葉ヘドが出るほど大っっ嫌いなんですが、でもたしかに僕たちに解決はありません。

でもこのキリストだけが理解し、寄り添い、解決を与える愛なんだなと思います。

このキリストと心つながることができると思います。

そしてこのキリストを通じて、十字架の愛を通して、お互いの人間関係もすごく強いつながりというか結びつきというか、まさしく神の家族?のような、心のつながりを感じるわけです。


ここでいう心のつながりは、なんか、一般でいうものとは違って、確かに理解できないところとか、分からないところ、合わないところがたくさんあるんだけど、それでもひとつになれる心のつながりを感じるんですね〜。


うまく言葉では言えませんが。

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三浦綾子の本

いま、三浦綾子さんの本にはまって読んでるんですが、罪がすごくはっきり書かれています。

罪っていうのは心に働くもので、心の中の汚い罪が克明に書かれているので、少し読むのがきつい時もあります。

自分がこれまでどれだけ浅く生きてきたかを感じらされるし、男性として、尊敬できるところや共感できるところが多いですね。

まだそれほどたくさん読んでるわけではないですが。。



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2018年7月30日月曜日

Fwd: お久しぶりです

なからくブログアップしてませんでした。

すいません。

その間に18歳になってしまいました。

18歳は大人ではないけれども、その境界線には入った年齢だと思います。

大人の世界に入っていくわけですが、いつまでも純粋なバカでいたいです。

キリストに真っ直ぐで単純なものでありたい。

変に知識で固めた言い訳めいた大人になりたくない!!


そうは言うものの、もうその兆候がでてるんですね〜これがまた。


あーなんて自分の心は言い訳めいた生き方をしてるのだろうと思いますし、不潔で汚い心なんだろうと思いますが、それでもそこで折れたくないし、人ってそんなもんだよ〜あはは、なんてなりたくないし。


でも、そうやって自分の力で善の領域に達しようとして失敗してきたので、もうこれでいいのだと思います。

このウンコのような俺を愛して命まで捨てたイエス様を信じるって言うのは、そういうことなのかもしれません。

もうこれで愛されてる、このままで愛されてる。

実はこの言葉あまり好きじゃなくて、甘ったれたこと言ってねぇで、だったら悔い改めの実を見せてみろよこん畜生。と思っていたのですが、なんか、本当に、これで愛されてるんだな、この存在を喜んでるキリストがいるんだなーと思うと、この深さに感動します。



まとまりのない話でしたが以上です。

2018年6月28日木曜日

上にたちたい

最近つくづく思う。

人は人の上に立ちたいと思うものなんだなーっと。

スポーツの大会も学校のテストも何番だとか人と比べなきゃ生きていけないのでしょう。

下になることを極端に怖がり、見下されると怒り、上に立つとあぐらをかいて余裕をみせる。そして余裕があるときは優しくできるし人を赦せる。

そしてプライド。
僕にも少なからずプライドというものがあって、ものすごく邪魔です。バカにされても主にあって喜んでいられないものか。。。

何でも言い返したくなるんですよ。
俺が正しい、お前ら間違えてるよって言いたくなるんですよ。(学校の話)

誇りという名のプライドすら要らないと思うけど、まあそこは世の中では必要とされてることなんでしょうか?

そして何よりも傲慢という名のプライドなんか捨てちまえって思いますね。


あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。


イエス様の望んでいる姿は人が求める姿と大きく違うな~っと思いますね。


人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。


イエス様は口だけじゃなくて事実行動で示し、十字架で命まで捨てたと思うと改めて感動です。

神の子であるキリストが下の下の地獄まで落ちた。だからこそ神はキリストを高くあげられたともある。。

王座の王座の上に君臨している父なる神が絶対的権威をもっている。というのも、なんか僕にとってはすごく安心です。


とりあえず、プライドを捨てたいです。

2018年6月10日日曜日

知ることと個人的に知ること

間違えて送信したので続きから。

あーだこーだと考えた結果だろうし、自分もあーだこーだと考えるは好きです。

大人にもなれば、もう考えることは減って諦めが増えるのでしょうか??まあそれは置いといて。

でも、すごく世間(学校の人たち)に多いなぁ~と思うのは、表面上の事実だけを知って、そこから判断しているという事です。

キリストに対しては特に敏感にそれを感じます。

宗教であり、キリスト教徒は日本では少ないし、色々なイメージやレッテルもあり、ある事実に対しての伝え方がかなり偏っていて、それを鵜呑みにしていると思いますね。


まず、イエス・キリストについての周りの付属品について知るのではなく、イエス・キリスト自身を見つめてほしいし、彼自身を伝えるのが僕らクリスチャンの務めですね!

知ることと個人的に知ること

新井牧師が書いていた事で共感したことのひとつ。

知ることと個人的に知ることは決定的に違うということです。


いまの時代は腐るほど情報で溢れていて、知ろうと思えば何でも知れますし、知った気になれる。

テストなんかでも、100点取ればその教科は知っていると見なされる。

今の若い世代は悟り世代と言われて世の中を悟っていると言われていますが、あながち間違いではありません。でも、決定的な差は、「知った気でいる」ということだと思います。

というのは、例えば世界史のテストで100点とっても、神学大全を書いたのはトマスアクィナス!だとか、悪人正機を説いたのは親鸞!とか、キリストは自らを神と名のり十字架の死からパウロが贖罪説を説き、後にローマ帝国により世界規模の宗教となった!
など、たくさん知識は知っていても、

「トマスアクィナス」自身がどんな人で、「親鸞」自身がどんな人で「イエス・キリスト」自身がどんな人か、知ってる人は少ないです。

表の事実を知ることと、その人を個人的に知ることは全く違うというのです。

律法学者はキリストを知っていながら、知りませんでした。それが顕著に現れている例だと思いますね。

人それぞれ考える哲学、信じる宗教があります。頭の理論であーだこーだと考えたけっかだろ


また最近さぼってました

すいません、また最近さぼってました。

読んでくれてたかた、申し訳ないです。

いまは新井牧師の、「人生は出会いで決まる」という小冊子から、チャペルをしています。

といっても読むだけです笑


少し難しいかな~っと思いつつ、すごく個人的に感動したので、読むことにしました。

でもやってみたら、みんな予想以上に聞いてます。感謝です。

全校の前で話す機会が来るかもしれません。その時はお祈りください。!

2018年5月15日火曜日

再開

学校のチャペルは一時休止してたのですが、再開です。

お祈りください。

2018年4月23日月曜日

聖書の言葉

最近すごく聖書の言葉が語られます。

ここ二日は特にそうでした。

チャペルで話すことは、やめてはいけないと思いましたね。

週に一回でもいいので話そうと思いました。

彼らが聞いても聞かなくてもあなたはわたしの言葉を語れ。

という、エゼキエルの言葉が語られました!

とにかくエゼキエル書を通してめっちゃくちゃ語られました!

恋愛の事も福音伝道の事も。

もしあなたがわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。

もしあなたがわたしを愛するなら、あなたはわたしの契約を守ります。

とかたられ、とにかく好きなひとの事は全部主に委ねろって、びっっくりするぐらい明確にぶん殴られるほどはっきりと語られました。

だいぶ粘ったんですが、心の中に偶像を秘める者の願いをどうして聞いてやれようか。とかたられ、それでも食い下がったら、

あなたが来たのは、わたしに願いを聞いてもらうためなのか。わたしは生きている。あなたの願いは聞かれない。

とはっきり示されました。


だから、恋愛については、もう委ねるしかないのです。これほどまでに明確に語られたので。

しかし、自分を捨てないといけないから捨てるというより、イエス様についていきたいから自分を捨てられるようになりたいですね。

そしたら、トーベンさんという聖霊の働きがすごいクリスチャンの方の動画を見て、自分も祈ったらすごく聖霊を感じて、

それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。—神である主の御告げ—悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。
あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。—神である主の御告げ—だから、悔い改めて、生きよ。



これがはっきり語られましてねー。



それいがいの箇所もたくさんあるし、ヨハネの福音書も開けばあるのですが、ブログじゃ書ききれません。口で話します。


あ、あと、これも語られました。


あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。


二心のある人たち、心を清くしなさい。



アーメン!!!



2018年4月22日日曜日

ディスカッション

詩ばかり載せてますね、すいません。。

最近はチャペルの形も変わってきました。

ディスカッションをするようになりました。これからは、俺主体じゃなく先生主体です。

伝道で俺が話すことはもう話しきったと思うので、今はディスカッションで神とは関係ないことをディスカッションしたりします。

18歳での成人を認めるべきか

について話し合いました。


これを読んでる人にとっては、僕に神のことをいつまでも話続けて欲しいのかもしれませんが、話すべき事はもうしたし、いつまでも口でベラベラしゃべるのではなく、実践のときですね。

そして、ディスカッションのときでも、みんなのグループの一人の意見という形で、聖書の角度から意見を発表することができます。

教卓にたって上から話すのは、一旦休みます。若いうちから人を教えてたら大概自分を教えなくなる気がしますしね。




2018年4月15日日曜日

夜空の星に


夜の夜空に願い事
星を眺めて呟くの

淡い心の微かな気持ち
知らないようで無視できない

真っ暗夜空の暗闇に
静かに光る微かな星たち

どんなに遠い光でも
私のもとに届いてる

消えないあなたのその光
なんだか強さを感じるわ

小さな小さな明かりには
揺れない何かを感じるの

消えない光を確かめながら
淡い願いを心に刻むの



単にロマンチックで、詩的で、恋っぽい詩を書きたかっただけです。
まったく自分の心を表している詩ではない。

2018年4月14日土曜日

遠い国の誰かになら

知らない誰かになら
出会ったこともない
遠い国の誰かになら
優しい思いでいれるけど

思いを知れば知るほど
近くになればなるほど
受け入れられない自分がいて
やさしくできない自分がいる

遠い国の誰かじゃなくて
隣のあなたを大事にするのが

一番難しくて

一番大切なこと





という詩です。

枯れない根

共に喜ぶ幸せは

笑顔の花を咲かすけど

共に悲しむ幸せは

決して枯れない涙の根をはる





以上の詩です。題名はてきとうです。

2018年4月12日木曜日

ひいらぎ

冬のさくらは枯れていて
冬のひまわりは姿を見せない
立派な花はもたないけれど
たとえ冬でも見守ってるよ



解説したら味わいが薄れるのですがね。
ひいらぎって豪勢な花はないけど、冬でも緑の葉を繁らせてるんですね。
寒い冬の時でも見離してくれない存在みたいなものを意識しました。

嘘の嘘

その人のため嘘をつくのは
別に悪いことではない

でもその人のためつく嘘が
そんなに多いはずがない

自分を守るためつく嘘を
その人のためだと自分を騙し
いつしかそれにも気づかなくなる

嘘を嘘で上塗りしていき
すり替える術だけ
いつしか覚える



これは、ほぼ文句みたいな詩ですね。
でも、こういうことってありますよね。


自由の結末


何を言うかは自由だ


どう生きるかも自由だ


でもその責任が問われる





この詩(詩にしては短すぎますね。)に込めた思いは色々ありますが、書かないことにします。

孤独

人はみんな孤独が嫌いだ

誰かと笑いたいし
誰かと泣きたいし

そうやって心の荷物を
下ろす場所を探している

でもどれだけ友達とはしゃいでも
求めているのはそれじゃないんだ

誰かと一緒に笑っても
誰かと一緒に泣いたとしても

何なんだろう

いつもどこかが悲しんでいる




これは、題名の通りの詩ですね。

まどぎわで

今日に追われて今日が終わる

やりきったゴールも
明日へのスタート

明日も追われて終わるだろう

追われる日々を走りながら
彼方のゴールを目指すけど
何やら最近気づいてきた

どこを目指して走るのか
それが自分にわからない

なぜスタートしたのかすら
問いたいけど誰も知らない

走る理由もないのなら
いっそ走るのやめようか

ただ毎日に追われて
散っていくだけなら





まー、高校生の忙しい日常を書いた詩です。
こっからイエス様という解決を知ってほしいのですがね。

誕生

まだ何も知らない君へ

生まれてきてくれてありがとう

君を必要としている人がいる

君を待っている人がいる

目的があって与えられた命

必要ない人なんていないんだ

何も知らない君の瞳は

悲しいほど純粋だね

何も知らない君から教わったこと




個人的に好きな詩なんですが、神を感じないですね。少しヒューマニズムを感じるので、個人的に没ですが、載せときます。

ひまわり


真夏に咲く一輪のひまわり
君はどこから来たの どこへいくの
そんなにまっすぐ どこを見つめてるの


青い海を君は知らない
白い雪を君は知らない
ただ黙って上を見上げてるだけ

何も知らないはずなのに
何だか僕が何も知らない気分に
なるのは どうしてだろう




高校で最初に書いた詞ですね。
知ってるようで何も知らない人間
知らないようで核心を知っている花
みたいなものを意識しました。

2018年4月7日土曜日

詩をあげてみましょう

暇潰しに詩をたくさん書いていた時期があるのですが、あげてみます。

恥を忍んでです。

決して、あげたいわけではありません!( ̄^ ̄)


たくさん有るので、これで毎日(忘れてなければ)ブログを書くことができますしね!笑

まー、17の若者がほざいとるわ見たいな、軽い感じで読んでください!


若い人には真剣に読んでみて欲しいです!

↓の続き

大切なこと良い忘れてました。


甘やかすことで他人に厳しく自分に甘くなり、その事にすら気づかなくなるということでしたが、

その上でキリストを知っているので、罪の赦しやノンクリに対して見下したり対抗心を燃やしたり、しかし自分自身の問題に、気づけない。

自分に甘かったら行動が伴わないしね。
自分の弱さは聖霊がおおうのはアーメンですけど、
だったら、他人を必要以上に責めるのはもはや罪ですよね。


一番言いたいのは、

自分に厳しくない人の言葉はむなしく聞こえる。

ということです。

何もひびかない。

聖霊が働けば良いとはいうけど、はっきりいって開き直れと言われているような気がしますね。


まずもって、自分が聖霊に満たされる必要があって、語る前に自分が神の前にどう生きるかだと思いますしね。

何より、イエス様がこんな生きざまだったとは思えないんですよ。

30歳まで語らず、ましてや自分に甘かったとは思えない。忠実に働いたとあるけど、僕からしたら忠実さには努力が必要だと思いますし、もちろん神の助けあってこそですけど、始めから頑張る気がなかったら、僕は宿題せずにこたつに寝転がって、主よ!宿題を終わらせてください。と祈りますね。

とまあ、こんな具合に自分に甘くしてしまうので、厳しくする「意識」は多少なりとも必要だと思います。

甘やかす

甘やかすって本当に恐ろしいですね。

後になって変わろうとしても、なかなか変わりませんしね。


自分にとことん甘い僕ですが、恐ろしいほどその事をいま痛感してるので、厳しくしたいと思ってます。


少なくとも他人に福音を話しておきながら、そして厳しくしておきながら、自分のことには目をつむるなんてのは御免被りたいですね。一番最悪は、その事にすら気づかなくなることですね。

僕の場合厳しくするってのは、忠実と忍耐これにつきますね。

具体的にいえば 
宿題、キレない、落ち着き、、あと守るべき常識を守る。

伝道してる身なのでね。

お、いまかっこいいこといった。

2018年4月2日月曜日

若い男のクリスチャン

若い男のクリスチャンにとって、悩みの種は、女性でしょうね。

あ、いやいや、女性が悪いのではなく、男の情欲が悪いのです。

「男」といって一くくりにして責任所在地を多数にすることで、自分自身の一個人としての責任をぼやかしたり、個人のこととして考えることから逃げることは僕としてはよくあることなので、男という呼び方をやめます。僕じしんの問題ですね。

僕の今の一番の問題は性欲なんですねー。



おっと、こういうことを話すのは、キリスト界隈ではタブーとか世間では痴漢だと言われるかもしれませんし、何よりも俺の人格を疑われて、女性なんかは特に近づくのも嫌になるかもしれませんが、、しかしですねー、、どれだけ体裁を繕っても、人の心って汚れてるんだなって思うのです。

僕の心は薄汚れているのです。いや、濃ゆ汚れているのです。(こんな言葉はありませんが)だからといって、堂々とおれは情欲をもってるー!なんて大声でいうことでもないのですが、、、、しかしはっきり話したいなと思うので話しますね。



僕は言葉を話し出したらきりがない。周りの人は僕をメッセンジャーとして誉めたり尊敬してくれたりする人もいますが、、誰が本当に主の前に正しいかなんて、神しかわからないですよね。

若いうちにメッセージに慣れるのは、危険な側面もありますしね。人に話すことばかり慣れると、自分を教えなくなるんですよね。


話それましたけど、僕のこの性欲の話です。

きっと男にとっては大きい問題だと思います。

世の中ではかわいいとか性行為をしたいとか、そういう衝動を好きとか愛とかいう言葉で表現しますが、こんなの愛ではありませんよね。女性を汚してしまう単なる自分の汚れた欲望です。

無論、世の中にもしっかりこの欲望と愛というものの区別をしている人はいると思いますが。


僕は人にイエスキリストのことを伝えていながら、イエスキリストが僕に伝えてくれたことを何も実行していない。

罪の赦しは、わかります。

でも、だからといって罪をおかすわけにもいきません。

しかし、この欲望というのは、どうしようもないんです。

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。



聖さが僕には必要だし、それこそ聖霊が、必要なんだと思います。聖なる方というのは、汚れの無い方という捉え方もできますしね。



だけど問題は、これだけ頭でわかっても、なんだか心の底から聖霊を求める気がしないのです。

そりゃ、聖霊に満たされたいけど、そのことよりも好きな人のことで頭がいっぱいになったり、違うことで頭がいっぱいになるのです。


なんだか、もはや自分の意思で、聖霊を求めることすらできないのかな、と感じます。

正直にいうと、今の罪の快楽(それは情欲を抱くことに限らずですが)から離れるのが嫌なのです。

どれだけ神に近づきたいと思っても、罪から離れたくない思いが圧倒的に勝ってしまう。

自分の意思は、神を愛してもいないし、罪をわかったところで変わりたいとも思わない。

だから、あわれんでくださいと祈るしか、僕にはないんです。

若いときのエネルギーとか勢いなどで解決できるものでもないですし、ただ聖書読んで、あわれんでくださいと祈るしかないと思います。

明日から再開

明日から学校が始まります。

チャペルはもう終わりにするつもりだったんですが、続けるように語られましたので、するしかないですね。

自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。


という箇所ですね。

自分自身にも、よく気を付けない。ということですね。

2018年3月27日火曜日

⑤いじめについて

④死んだらどうなるの

③中絶の是非

②死刑制度の是非

①神はいるのか

写真で申し訳ありません。

変わらないなぁ

アンケートの答えは、今日中にブログにあげたいと思います?

さて、最近思うのは、僕はいつまでたっても同じことでぐずぐずしてるなと言うことです。



成長しないなぁ。変わらないなぁということです。


それにたいして様々な理由付けや立派な言い訳とか、それでも神様が~とか話し出したらきりが無いけど、本当に神様が働かれるなら、変わるはずですよね。

何が変わらないって、朝起きて宿題をしないとか、、他にも色々、罪ですね。

罪を完全に無くすことはできないにしても、我慢できるところで我慢しないと言うか、もはや罪を犯さないようにしようという意識が無くなったという感じです。


それでいて、聖霊が働かれるといって、罪をおかす自分を是認してるような気がするんですよね。


まー、最近こそは宿題をするようにはなったけど、まだまだだし頑張りたいと思います。

自制と忍耐力ですね。


40日断食できないのは仕方ないにしても、1日目の1食目のお菓子を我慢できなかったら、それはもはや断食する気が無いってことですよね。それでいて、弱い私を赦してください。アーメン。って祈るみたいな、そんな感じです。今の僕は。

2018年3月26日月曜日

お久しぶり

いやー、お久しぶりですね。

学校のチャペルでやったアンケートの答えをあげていきたいと思います。

まずは、神はいるのか、からです

2018年2月26日月曜日

聖霊を求める!

不思議なものです。

心からイエス様とひとつになりたい、十字架を負いたいと願うのに、

いざ宿題はめんどくさくて、すぐイライラして、、

罪をあがなわれたイエス様を思って涙を流すのに、同じ過ちをまた犯して、、

僕ははっきりと自覚しなきゃいけません。

罪にある自分はイエス様より罪を愛してるんですね。

不信仰になるって、信じてないってこと、イエス様を信じてないのと一緒なんですよね。

そのぼくのために来たのがキリストであって、その罪を引き受け、十字架にかかり、復活されたわけです。

このかたを信じたい。そう思うけれども、罪を愛してしまう。

心では神の律法にしたがい、体は罪の律法に従っているということです。

そう思う度に十字架が思い起こされるわけです。

あぁ、このぼくのために死んだんだな。と思うのです。

だから、この方を主と告白して生きるのは、立派でもなんでもなく、もはやそうせざるを得ないし、喜んでそれぐらいしたいわけです。

でもそれは信仰生活の一部であって、本当に主を愛してるなら、みことばを実行してるはずなんです。

それが悲しいぐらいできない、してないんですね。

できないというより、してない、ですね。

自らの意思で従わないことを選んだりさえしてしまいます。

だから、どこまでも肉にある僕は罪を愛し、やがて死ぬんだなぁと思います。

そして、ぼくに住む聖霊様は神を愛し、伝道もするし、罪に生きる自分を見て悲しんでるのだろうと思います。そしてこの霊が永遠に生きるだなぁ、とそう思うわけです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」

パウロもこういっている通り、キリストの霊がぼくを動かしているんです。と、同時に罪人である肉の自分も生きているんです。

しかし、何度も書きますが、そのぼくのためにキリストは死に、すでにあがないを完成されたんだなぁ、と思うわけです。

だからこそ、イエス様とひとつになりたい。

聖霊を受けなさい。とイエス様は言われましたけど、本当に受けさせてほしい。

聖霊で満たしてほしい。心からそう思う自分がいるのに、いざそう祈ろうとなると祈らず好きな人のことばっか祈る。

こんなぼくなんです。

でももうイエス様にすがるしか無いのはわかりましたから、聖霊を求めていきたいと思います。

聖霊をうけて

不思議なものです。
心からイエス様とひとつになりたい、十字架を負いたいと願うのに、
いざ宿題はめんどくさくて、すぐイライラして、、

罪をあがなわれたイエス様を思って涙を流すのに、同じ過ちをまた犯して、、

僕ははっきりと自覚しなきゃいけません。

罪にある自分はイエス様より罪を愛してるんですね。

不信仰になるって、信じてないってこと、イエス様を信じてないのと一緒なんですよね。

そのぼくのために来たのがキリストであって、その罪を引き受け、十字架にかかり、復活されたわけです。

このかたを信じたい。そう思うけれども、罪を愛してしまう。

心では神の律法にしたがい、体は罪の律法に従っているということです。

そう思う度に十字架が思い起こされるわけです。

あぁ、このぼくのために死んだんだな。と思うのです。

だから、この方を主と告白して生きるのは、立派でもなんでもなく、もはやそうせざるを得ないし、喜んでそれぐらいしたいわけです。

でもそれは信仰生活の一部であって、本当に主を愛してるなら、みことばを実行してるはずなんです。

それが悲しいぐらいできない、してないんですね。

できないというより、してない、ですね。

自らの意思で従わないことを選んだりさえしてしまいます。

だから、どこまでも肉にある僕は罪を愛し、やがて死ぬんだなぁと思います。

そして、ぼくに住む聖霊様は神を愛し、伝道もするし、罪に生きる自分を見て悲しんでるのだろうと思います。そしてこの霊が永遠に生きるだなぁ、とそう思うわけです。


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」


パウロもこういっている通り、キリストの霊がぼくを動かしているんです。と、同時に罪人である肉の自分も生きているんです。

しかし、何度も書きますが、そのぼくのためにキリストは死に、すでにあがないを完成されたんだなぁ、と思うわけです。

だからこそ、イエス様とひとつになりたい。

聖霊を受けなさい。とイエス様は言われましたけど、本当に受けさせてほしい。


聖霊で満たしてほしい。心からそう思う自分がいるのに、いざそう祈ろうとなると祈らず好きな人のことばっか祈る。

こんなぼくなんです。

でももうイエス様にすがるしか無いのはわかりましたから、聖霊を求めていきたいと思います。


2018年2月25日日曜日

確信を伝える

3/31にコンサートすることになりました。

僕が企画させてもらうことになりました。

たくさんの友達を誘っているんですが、来てくれそうです。


まだなにも決まってなくて、決まりそうもなくて、早くも焦りが出て来ましたが、全体的な方向性としては前から決まってるんですよね。

まず、イエス様のことをはっきり主と告白するということです。

何かと人に受け入れてもらうために、ぼやかしてキリストを伝えているように感じることがありますが、それは一切やめてもらいます。

「人のために愛を届けるコンサート」なんてものは、世に腐るほどあるのでそんなこともしません。

ただ僕たちはイエス様の愛に出会って本当に嬉しい、これを知ってほしい。そういうスタンスで、キリストに感謝する意思表示をみんなの前でする。みたいなコンサートにしたいです。

「あなたは愛されている」と伝えるというより、「キリストの愛に出会えて私は本当に嬉しい」ということを伝える、と表現すればいいですかね。(そしてこの愛であなたは愛されていると伝たい。)

何が言いたいかというと、イエス様にたいする確信と愛を告白すること。人のためにではなく、主のためにコンサートをするということです。

だから、証もしてもらいます。

ただし、ごり押しでキリストを信じろ~!!!うぉー!!

みたいなこともしたくはないです。

なぜならそれをしたところで救われないからです。

熱意と根性で救われるならどれだけ楽でしょうかね。

だから、ここにしか救いはない、これを信じろ!!!!

というのは、まぁ、真実なんですが、そういう面を強調したくもありません。

繰り返しになりますが、「僕はキリストに出会えて本当によかった。」というのを歌にのせて神様に感謝するコンサート。そして、この喜びを知って受け入れてほしい。と伝える。

みたいな風にしたいです。

世の中にはキリスト教より論理立った哲学が山ほどありますし、キリスト教はよく理解できないことが確かにあります。

しかし、高校生たちを見てて思うのは、確信というものが無いなぁということです。

信じれるものがない。軸がない。

だから、信じるのも軸も自分自身だと言い始めるんですね。

この「確信」というのを伝えたい。

だからこそ、変に伝えよう伝えようとするのではなく、イエス様に心ら賛美している姿を見て、その確信を見てもらうのが、伝道になるのかなぁ。と思うわけです。

伝えることに比重をおくのではなく、神様にたいする心からの賛美に比重をおくということですね。

いやー、ど偉いこといったけど、なかなかぼくもボケーとしながらドラム叩いてるんですがね。

あと、まだプログラムなにも決まってないんですけどね。笑

答えはもうすでに出てる

伝道する上での悩みとか、あーでもないこーでもないと、つらつら書いていますが、結局答えはもうわかっていて、それを信じて進めないだけなんですよね。


福音を伝えるって、霊の世界での戦いだなとは思いました。
救おうとしてるイエス様VSそうさせまいとするサタン。
主はすでに勝利をとられたとありますが、イエス様は僕を通して目の前の人を救おうとしておられるわけです。

だからこそ、自分の頭や理論で話すのではなく、イエス様が働かれるように、イエス様の働き手として、伝道しないといけないわけです。それが俺にとっても祝福なんです。

そして、色々と悩むことがたくさんありますが、その悩みすべてが順繰り回って何度も同じことを悩んでは答えを見つけ悩んでは答えを見つけ、、、という感じなんですね。

結局答えはもうわかっていることなんです。

主に委ねて、信頼して自分は喜びをもって福音を伝える。
そのために祈る、聖霊に満たされるために祈る、聖書を読む。
自分のうちにみことばを蓄える。

腐るほど聞いてきたことですけど、結局これなんですね。

祈って聖書を読んで聖霊に委ねる。

自分がイエス様に生きる。

という、これだけのことなんです。

できなければ、祈ればいい。

これだけなんですよね。

一言で言えば、信じる。ということですかね。

主に信頼する。

簡単なことなんです。

それが難しいけど、だからこそ、聖霊を求ていきたいとおもいます。


2018年2月20日火曜日

一周まわって

昔からずっと思ってました。

「キリストがあなたの罪のために十字架にかかり死んでよみがえったんだ!」 

とかいう不器用な伝道の仕方はやめた方が良いと。


まっすぐ語りすぎたらある人にとってはつまずきだし、反発を食らうのは当然で、なぜそんなことをいちいちするのかと思ってました。 

伝えかたってもんがあるんだと思ってました。

だけど気づいたんですね~。

キリストの言葉をまっすぐ伝えるすばらしさです。

イエス様も、わたしは私のことを語るのではなく、父から受けることばをそのまま話すのですと言われました。

そして何よりも、

ひたすら分かりやすいように、

納得してもらえるように、

どれだけ工夫して伝えても、

得られるのは同意と納得であって、救いではないんです。

そして深層心理にはバカなことを信じてると思われたくない、いたって普通だ。ということを示そうとしている自分がいたんだと思います。

伝道って人のためではないな~と最近思います。

死ぬにしても生きるにしても、主のためだと聖書にあります。

あなたがたはすべてのことを主のためにしなさい。地上のことではなく、天のことを思ってしなさい。

こうもかいてあります。

ある程度の伝えかたの工夫ってのは必要ですけど、

ただ主に喜ばれるためにするだけですよね

2018年2月14日水曜日

基本的に戦い

基本的に伝道は戦いだと実感してます。

自分の思索との戦い。
そして周りのありとあらゆる様々な反応。
世の中の正義や価値観や倫理観。
そして、ここでは言えないようなこともね。

真実なんて誰も求めやしない。
求めるのは幸せだけですよね。
考えすぎないで、安心と幸せがあればそれでいいんです。
毎日を生きていければ、それでいいんですよね。

僕だってそういう面もあります。


ただし、高校生たちはそんなこと言うのは頭おかしい奴だと思っているし、そんな答えなんてないとか言うわけです。

興味ないんですよね。神の存在とか罪の赦しとかに。


どんどんこうやって人をさばき高慢になっていき、自分自身もイエス様から離れて自分の思索がやられていくわけです。

あなたがたはただでうけたのだから、ただで返しなさい。

聖書の言葉です。

2018年2月13日火曜日

救いへの確信

僕は必ずクラスメートが救われると信じています。

高校卒業までにと言われたら、確信できるほどではありませんが。

しかし必ず救われて教会に繋がり、一緒に礼拝をして、賛美をして、祈って、聖書を読んで、そしていつかは一緒に神様の働きをしたいな、伝道を一緒にしたいな、何て思って神様に期待してます。

ほんと、夢ですよね。

友達とこんなことができたら。

夢じゃない!現実になるんだ!

というのは、わかってます。

たんに夢に思うほど素晴らしいということです。

こういう細かい説明はなくて良いと思うのですがね。

さて、救いへの確信と言うことですが、何ヵ月か前に十字架のことを話したことがありました。本当に散々で、もう思い出すだけで発狂したくなるような感じで終わりました。

無様でしたね。ほんと死にたくなるほどです。

そして話し終わった後、席に戻って座ってがっかりしてると、しくしく涙が出るわけです。

ほんと辛かったですね~。


その時に聖書を読むとこの箇所が飛び込んできたんです!

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ー主の御告げー

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、私の思いは、あなたがたの思いよりも高い。

雨や雪が天から降って元に戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔くものには種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところには帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。



この言葉には、ほんと、励まされましたね。

神様の道は本当に高いんだな。そう思います。

昔の歌集の通りです。

主よ憐れんでください、あなたとひとつになりたい。
主よ用いてください、通りよき管として。



アーメン


もう少し、宿題ガンバろうと思います。

世界が違いすぎる

教会や家で神のことを、キリストのことを当たり前のように生活の中で聞き、話し、ジッサイニ体験もしているわけですが、

学校では、そういうことがいっっさい無いわけで、そういうこと言うとオカルトとか宗教になるわけです。

そういう学校の世界で信仰を保つというのは、そんな簡単なことでもありませんね。

片足は世の中に浸かって、片足キリストに浸かるようなのだけにはなりたくない。

そう思って来たわけです。

だから、はっきりと十字架の死と復活の伝道もしました。


けれども、倫理の授業や保健の授業で、人生観のことを学んだり、宗教を学んだり、先日話したアンケートの答えを読んだりしていると、ものすご~く重くて暗い気持ちになります。


一体自分は何をしてるんだろうと。

イエス様に対する確信は揺るぎませんが、一宗教の一主張に過ぎない。そう思われるのかな、、何て思うわけです。

だから余計に熱をいれて話しても、もっとそう思われるのかな、何て思うわけです。



だから、今はなんと思われてもいいから、単純に自分が信じていることをまっすぐ話したいと思っています。イエス様に喜んでもらうためにですよね。

世界が本当に違うんですよね。

どれだけ信仰とか福音のために生きるとはいっても、実際問題として宿題が山ほどあるし、従わないといけない世の中の価値観があるわけです。


「すべては福音のために」といって、何でもやれたらそれはいいんですけど、なんか僕としては「世の中で生きる」というのと「神様と生きる」というのが繋がらないんですよね。


本当は神様のために、宿題もある程度の校則も、世の中の正しさや優しさなどにも従うところまでは従う、譲歩するところまでは譲歩する。それでいいんでしょうけど、僕はうまくそこを繋げられないんです。

そして、片足世の中の浸かって片足キリストに浸かるのは嫌だ。と言っていましたが、僕自身、片足罪にまみれて罪を楽しみながら、片足キリストのために福音のために涙を流す訳です。

このアンケートのやつが終わったら、もう一回チャペルの形を考え直そうと思います。

もう十字架のことは伝えました。はっきりと伝えるべきことは伝えました。あとは、自分がみ言葉に生きるかどうかだと思います。

「私は神様のためにあれをしましたこれをしました。」しかし神様は「わたしはお前を知らない。不法を為すども、私から離れていけ」


すごくこの聖書箇所が気になります。


行動が大切なことぐらい当たり前なことですよね。福音を伝えるために口を開くことは、何も行動で示さないことを是認してるわけではないですし、、



とにかく、もう一踏ん張り。

アンケートに対する聖書の答えをしっかり聖書から、イエス様に喜ばれるようにまっすぐ話したいと思います。お祈りください!

2018年2月12日月曜日

好き放題

結構ブログでは好き放題言いたいこと言わしてもらってますが、学校での生活ではこうはならないように。学校と言うより、私生活ですかね。、、

伝道するにあたって、自分の信仰の持ち方、自分が神の前にどう生きてるのか、とか色々と直面する問題があるので、それを結構書きたい放題かいてるわけです。

まー。そろそろそんなやり方も終わりにしようかなと思ってますら、

⑥『罪』

罪とかいうと、いかにも宗教臭漂う感じしますよね。

罪を許してくださる神に感謝アーメン。


なんてね。


罪、、、、は???


というのが高校生たちの正直な感想ではないでしょうか。

と、同時に人って結構どうしようないぐらい汚いところがあるんだな。

なんてこともそろそろ感じる人も増えてくるんじゃないですかね。

聖書が言う罪というのは、法的な罪ではもちろんありません。怒りや嫉妬等が罪ですね。

もっというと、罪と言うのは聖書の原語では、ハマルチアといって、的はずれと言う意味です。

的がずれてるということです。

日本で罪と言うと、その人が悪人かのように思われますが、そういって責めたいのではなく、

むしろ、必死に真面目に生きて生きてそうしているのに、いつも満たされないところがあって、それは、「的」がずれてるからだ。というわけなんですね。

それもそのはずですよね。そもそもなんで生まれたのかすらわからないし、その上人が生きる意味は自分で見つけ出さないといけないというね。

まさしくこれが罪なわけです。


人は神によって作られ神のために生きる。神のために生きると言うのは、神のために自爆テロをしろと言うのとはまっったく違います。
神様は僕のことを愛しているからです。


とまあ、神を否定しその存在を意識すらせず、信じないこと。これが罪だと言うわけです。


神様のことを思うと言うよりも、自分のことは自分で決める。自噴の将来自分で決める。のように、すべて自分で決めて自分でやって、自分を神にしているわけです。

これが、自己中心といって罪の元凶みたいなもんですよね。


これが罪なわけです。

だから、神様が僕たちを愛してくれていても、僕たちがそれを拒んでるような感じになってるわけです。

罪を犯さなければ神様のところ、天国に行けます。神様は僕たちのことを愛してはいるけど、同時に正義の方だから、悪のままで天には入れませんよね。

言いたいのはそういうことです。



と、いうことで、全人類地獄行きなんですね。

神様はそれでも僕たちを愛してくれてます。

さてどうしよう、ということで、十字架があるのです。

アンケート

学校でチャペルをやってるんですが、アンケートをとることにしたんですね。

神はいると思うかとか死刑の是非とか、、

何故そういうことをするに至ったかの経緯を書きたいと思います。

まず最初にチャペルの時間はひたすら自分が神学的なことを(自分も大してしらないのに)クラスメートに伝えてたんですね。
それこそ、今までブログの①~⑤に上げてたようなことですね。

そして気づいたのが、ひたすらこっちが口を開いて開いて開きまくって、相手の言うことや相手の考えには全く耳を貸さなかったな、ということです。

聖書には福音を宣べ伝えなさいとあったり、信仰は聞くことから始まり、聞くことは神のみ言葉によるとも書いてますから、確かに伝道するにあたって、どれだけ避難されても口を開いて伝えることは必要です。

ただし、「お前らが間違いだ!俺たちが正しい!」とかそういった価値観で人の言うことを全く聞かずにいるのはどうかと思いましてね。

イエス様は罪人と食事をしたって、一体これは何を意味してるんですかね?

罪人の話すことにもしっかり耳を傾けていたと思いますよ。そのうえで、真理を伝えたはずです。

クリチャンホーム育ちなのでノンクリを見下したり、敵対心をもったりしがちなんですが、それはお門違いですね。

そして、聖書には言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛し合うではありませんか。ともかいてあります。

非難されても伝えるんだ~❗


と燃えるのは結構なことですけど、実際自分がみ言葉に生きてもいないし、つまずかせるような事ばかりしておいて、立派にみ言葉語っても、ねぇ。

それはすでにいる世の中の宗教家たちだけで十分ですよね。

それで非難されるのは、自業自得なんですよね。

結局、僕はひたすら口で語って語って語り倒して、人の言うことには耳を貸さなかったけれどと、イエス様は口だけの男ではなかった。そして、罪人の言うこと、要するに世の中の空しい哲学にも聞くだけ聞いて、そのうえで、真理を伝えたんだと思います。

聖書には議論家はどこにいる。知者はどこにいる。とか、世の騙し事の哲学に騙されてはいけませんとか、たくさん書いてますから、僕はすごく悩みました。

で、最終的にはアンケートをとるだけとって、みんなの意見や考えを吐き出してもらい、その次にそこから聖書の言葉をまっすぐ、混ぜ物をせずに語ると言うことです。


間違っても相手の意見に乗っかって言い返そうとはしないように、お祈りください。ただ、み言葉を話せるように、ですね。


そして、何よりも、自分がみ言葉にいきると言うことです。

はっきりいってこれも伝道ですからね。

できなくてもいい。ただ憐れんでくださる神に感謝というのもいいけど、罪に死んだ私たちがどうして尚も罪のなかに生きられるでしょうともあるので、


できない自分をあわれむ神というより、憐れんでくださる神によってできると信じたいですよね。

このままだと、自分の信仰は腐りますよ。

なんの行動も自制もない信仰になっちゃいそうです。


とにかく、そんなこんなで、アンケート配りました、

2018年1月18日木曜日

一週間経ちました

カナダに来てから一週間が経ちました。

だいぶ慣れてきたけど、まだ英語はほとんどわかりませんね~。

そしてだいぶ疲れてきましたよ、、、トホホ

言葉が違うとこんなにも不便なんですね~。。。


そして、こんなにも違う世界が当たり前のようにあるわけですねー。



別に海外いかないから英語やらんでいいしとか世界が広くても別に日本だけで良いし


何てよく学校で聞く言葉ですけど、本当に当たり前のように違う世界が至るところにあって

その至るところでもその人たちにとっては自分達の場所が普通で自分達のところだけの世界で生きてるんだなー、とおもうと不思議ですね。


ニュースや授業やらでただの情報として世界の事を知ったつもりになるけど、同じ時代に生きてるのに、こんなにも違うんだな~、そして自分達だけの世界だけで生きるのはもったいないと思いますね。

色々の世界や価値観を知った上で、(もちろんただの情報としてではなく)日本という世界で生きると言うのはかっこいいですけどね。


だって、生まれた世界だけしか知らずにいるのは、たまたまこの日本に生まれてこの日本のこの時代のそしてその人の周りの価値観だけしか知らないってことで、その価値観だけが正しく見えるわけですよね。


そして、この日本だけでいいし、私海外になんていかないから。というわけです。

世界70億人ゆっても日本だけで1.2億人、そして実際あってコミュニケーションするのは10万人いくのでしょうか?もっといえば、本当にお互いを知ってのコミュニケーションは、数千人じゃないですか?

自分の持ってる価値観というのは、自分で作り出したのももしかしたらあるかもしれませんけど、基本自分が育った環境や周りに造られた価値観です。

そう考えたら、自分の価値観なんてたったこの時代のこの日本という国のそしてこれまでとこれから出会う数千人の人、そして何より自分の家族と友達によって造られた一つの価値観でしかないわけです。


何か自分だけの世界で知った気になって生きるってのはバカらしいですね。

察っしろよ!みたいな文化の日本で、何でも口で直接伝えると、浮いてしまうし。
海外では逆ですしね。


だってここは日本だもん。だってそれは海外の話だもん。


最もな理屈なんだけど、バカらしいですねこの理屈。

だって場所で正しさが変わるんですよ??

「多様な価値観を認める」ってよく聞きますけど、本心から、心の底から違う価値観を認めることができる人なんていないと僕は思うし、そんな簡単に違う価値観を認めるられるなら、そんな価値はショボいと思います。

死刑には反対です。でも賛成の意見の方の価値観も認めます。。んなバカな。。

人を殺すのには反対なのに人を殺して良いという人には反対しないのかよ、、、、

死刑制度の事に関してはそんな簡単な話じゃないと思うので、まぁこの話はいつかします。

何が言いたいかというと、どんなことに価値を見いだすかは人それぞれだけど、良いとか悪いとか、正義とか悪とか、そういう一番大事な価値が場所で決まって、それを認めるなんておかしな話だと思うし、だから、僕は多様な価値観を認めることは確かに必要ではあるけど、

場所とか時代とか金とかそんなものを越えた絶対に変わらない価値観こそが本当に正しいものだとおもうんですね。

たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。

とイザヤ書にあるんですけど、本当にアーメンです。

どの時代の人にもどの国の人にも、イエス様は十字架で死に復活したわけで、どの時代もどの国も、同じイエス様を賛美してるんだな~と思うと感激ですね。

カナダの学校にはほとんどクリスチャンがいないんですが、、、

まあ、いずれクラスメートが救われるのでね!



2018年1月13日土曜日

カナダです。

今カナダにいますよ~。

英語速すぎ。尋常じゃない。

いや、これが普通なわけですね。

別に外国人はリスニングテストをしてるわけではないのでね。


いやー、ほんとに最高の体験です!

2018年1月6日土曜日

⑤『神の愛』

恋愛と家族の愛について話してきました。

他にも友情愛とか、まー、色々ありますけど、まとめると、「人間愛」ですよね。

この人間愛には限界があります。

愛するというのは見返りを求めるものでもなく、完全に相手のためを思うことです。

そんな人間いません。

だって何がその人のためで何が違うかなんてわかるんですか???

それなのに、自分は完全な愛を受けることを求める。

簡単にいうと、人間は愛せないのに愛されたいと思うってことです。

なんかさー、難しいこと言わないで、単純に好きって思いがあるだけで十分じゃない?

って声が聞こえてきますね~。(笑)

そう思う人はそう生きたら良いと思います。うん、自分で考えていけば良いと思います。

さて、神様は私たちを「愛してる」といいました。

まず神なんているのかってことだけど、それは次回。

神様は一人一人を私が造ったといっています。
俺はお前が大好きなんだ。
俺がお前を造ったんだ。
理由なしにお前がすきなんだ。
そのままで本当に愛してるんだ。

そういってるわけです。
この神様の愛こそが、真ん中を埋める愛なんですね。


しかし、じゃあ、その愛を感じてる人なんているのか?


ほとんどそんな人いませんよね。

身近な人に、私は神様に愛されてる!
何て言う人いますか?

それに愛されてるなら、なんで、こんな苦しいことばかりで、しかもいるんだったら目に見せろってね笑笑



口だけの理論だけやろってね。


しかしそれは罪があるから、なんです。

罪があるから、神様の愛に気づけないのです。

は???

となるけど、まー、次は罪ってなんぞやってことで話したいと思います。


まー、ゆーなれば真ん中の虚しさの原因が罪ですね。





2018年1月4日木曜日

いくらでも満たされる

①②③~で真ん中を満たす愛してくれたの話をしてますけど、いくらでも満たされますからね。

しょっちゅう。

ただ僕がいってるのは、「一時的なもの」ではなく、「変わらないもの」ということです。

変わらずに真ん中を満たしてくれる。

このままの自分を「ずっと変わらずに」愛してくれる存在の話をしてるわけです









④『家族愛』

家族っていうのは、なんか、言うなれば聖域みたいなもので、外がとやかくいうものじゃない。みたいなところがあります。

間違いないですね。

そして家族の形というのもそれぞれで、一概には言えません。そして、言ってしまうと言った側がいけないみたいなところがあります。

でも言いますね。

例えば、離婚というのは、それだけでは良いとか悪いとか判断しかねることです。
でも、今は三人に一人が離婚してます。少し多すぎませんか。

簡単にくっついたり離れたりできるものではないと思います。なぜなら、結婚するというのは新しい命が生まれること、そして、体だけじゃなくて心も相手の人と言葉の通り「一心」同体になるからです。

まあ、この話はこのへんで。。。

今では普通の一般家庭という体で話をすることができない気がしたので何とも難しいところですが、、、、

さて、今は真ん中を埋める愛というテーマで話を進めていました。


どんな家庭であろうと、あなたが生まれたとき、お母さんはその誕生を喜んだはずです。
そしてあなたのことを愛していたはずです。

そして普通は、あなたが赤ちゃんの時、夜泣きをしても、色々手間がかかっても、すごく大切に育ててくれたはずです。

でもなんでですかね?

赤ちゃんてのはなんか清い存在的な価値観がありますが、そういう観念を取っ払うと、迷惑しかかけない存在ですよね?

一体なんか利益をもたらす存在ですか?
赤ちゃんを大事にしたからって、何か得ることができますか?

できません。

でも、大切にしてくれました。

何にもできない、そのままの自分を「よしよし」と言って愛してくれた。

これこそが、無条件の愛だと思います。

では今現在はどうですか?

よく若い人たちに「あなた方は希望です」とか聞くけど、赤ちゃんに希望があるなら、なぜ大人にないんですかね?子供もいずれは大人になって希望はどこに消えていくんですかね。


それと同じように今現在は、家族仲がよくない家庭が多い気がします。良いときも悪いときも共に過ごすから意味があると思うのですが、もはやそういう次元ではない家庭がある気がします。
理由はそれぞれだと思うし、俺が首を突っ込むことでもありません。

でも確かにそうです。

そして、先述したように、家族の愛を受けてこれなかった人もいるわけです。

家族の愛は素晴らしいものだけど、もし本当に無条件の愛なら、一体なぜこういうことがおきるのですか?

そして、受けてこれなかった人はどうなるんですか?

だから僕はこう思います。
家族愛で満たされないからこそ、真ん中がぽっかり空いてるんだと。
そして家族愛で満たされないと恋愛に走るんだと。
これは完璧な主観です。。(笑)


だから、家族愛で、真ん中が満たされてるひとは、本当に素晴らしいことだと思ってください。


久しぶり

すいません、最近全然あげてませんでした。

多忙だったんです。

ま、あげようと思えばできたけど。


宿題やらチャペルの準備やら大変だったんです。

ま、あげようと思えばできたけど。




ってことで、サボってただけです。すいません。。

③『恋愛』

こんにちは、『宗教なんて大っ嫌い』が①で『漠然とした虚しさ』が②です。

早速続きから話しますが、心の真ん中にぽっかりとした虚しさがある人がいると思います。

できる限りそういうことは考えたくないし、もうそういうこと考えずに、目の前の幸せを感じよう。

この考えもチョー納得。

でもそれだと、その虚しさから逃げられない状況になったとき、術がありません。

答えなんてないんだ。という考えもあります。

でも、その虚しさに対する答えが無いなんて、誰が決めたんですかね?そして、聖書には答えがはっきりと明記されています。それは神の愛を知ることです。
たしかに戦争を起こしてるのはキリスト信者です。
でもキリストや聖書はそのように教えていません。

でもまだ聖書そのものの話をされても納得いかないですよね。神の愛とか、何いってんだ。と思いますよね(笑)

だから、まずは人の愛を考えてみましょう。
まずは恋愛から。


高校生って、恋愛しますよね~。

ま、僕にも片想いの好きな人はいるけど、、(笑)

いやいや、そんなことより、恋愛こそが真ん中の虚しさを埋めてくれる。これこそがいきる意味の本当の答えだと。そうだと思いますか?
だとしたら、質問です。

その好きな人のどこが好きなんでしょうか。

理由なんてない、その人がその人だから好き。
と、思いたいですが、必ず理由があります。

理由もなしに人を好きにならないからです。

そこは、もうそういうものだから、ここは強引に話を進めます。

理由をもって好きになるということは、その存在すべてをそれだけで受け入れてることにはなりません。

残酷な話だけど、どれだけ好きでも、相手の全てを受け入れることなんてできないんですね。

それは、相手が悪いからではなくて、自分にその度量がないということです。


恋愛なんか特にそうです。まー、恋愛とひとくくりにしても、それぞれですが、要は異性間での恋のことですよね。

異性間での恋といえば、少しでも色気を出して誘ってみたり、かわいい声を出してみたり、髪型決めて、着こなして、男前のところ見せたり、まーそういうのに惹かれたりしますよね。
うん、僕だってそうです。

もちろんそれだけが恋愛じゃないけど、そういう一面がかなり強いでしょ?

悲しい話をすれば、『ブスでデブでチビで不潔で、でもものすごく優しい理解者』に恋をしますか?

するんだったら本物。しないんだったら、多少は外見に左右されてるってことです。

それこそ、『~だから好き』っていう条件付きですよね。

どんな人間にも、無条件で人を愛する力はないんですね。もちろん僕もです。

にも関わらず、無条件で愛されたいと思う。
自分の存在をそれだけで受け入れてほしいって誰しも思うはずです。


んー、困ったものだ。。。


おっと、家族はどうでしょう。

家族は別に外見がどうとかで、嫌いますか?
いーや、普通は親は子供をそれだけで愛するものです。

次は家族愛を考えてみましょう。