教会や家で神のことを、キリストのことを当たり前のように生活の中で聞き、話し、ジッサイニ体験もしているわけですが、
学校では、そういうことがいっっさい無いわけで、そういうこと言うとオカルトとか宗教になるわけです。
そういう学校の世界で信仰を保つというのは、そんな簡単なことでもありませんね。
片足は世の中に浸かって、片足キリストに浸かるようなのだけにはなりたくない。
そう思って来たわけです。
だから、はっきりと十字架の死と復活の伝道もしました。
けれども、倫理の授業や保健の授業で、人生観のことを学んだり、宗教を学んだり、先日話したアンケートの答えを読んだりしていると、ものすご~く重くて暗い気持ちになります。
一体自分は何をしてるんだろうと。
イエス様に対する確信は揺るぎませんが、一宗教の一主張に過ぎない。そう思われるのかな、、何て思うわけです。
だから余計に熱をいれて話しても、もっとそう思われるのかな、何て思うわけです。
だから、今はなんと思われてもいいから、単純に自分が信じていることをまっすぐ話したいと思っています。イエス様に喜んでもらうためにですよね。
世界が本当に違うんですよね。
どれだけ信仰とか福音のために生きるとはいっても、実際問題として宿題が山ほどあるし、従わないといけない世の中の価値観があるわけです。
「すべては福音のために」といって、何でもやれたらそれはいいんですけど、なんか僕としては「世の中で生きる」というのと「神様と生きる」というのが繋がらないんですよね。
本当は神様のために、宿題もある程度の校則も、世の中の正しさや優しさなどにも従うところまでは従う、譲歩するところまでは譲歩する。それでいいんでしょうけど、僕はうまくそこを繋げられないんです。
そして、片足世の中の浸かって片足キリストに浸かるのは嫌だ。と言っていましたが、僕自身、片足罪にまみれて罪を楽しみながら、片足キリストのために福音のために涙を流す訳です。
このアンケートのやつが終わったら、もう一回チャペルの形を考え直そうと思います。
もう十字架のことは伝えました。はっきりと伝えるべきことは伝えました。あとは、自分がみ言葉に生きるかどうかだと思います。
「私は神様のためにあれをしましたこれをしました。」しかし神様は「わたしはお前を知らない。不法を為すども、私から離れていけ」
すごくこの聖書箇所が気になります。
行動が大切なことぐらい当たり前なことですよね。福音を伝えるために口を開くことは、何も行動で示さないことを是認してるわけではないですし、、
とにかく、もう一踏ん張り。
アンケートに対する聖書の答えをしっかり聖書から、イエス様に喜ばれるようにまっすぐ話したいと思います。お祈りください!
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