2018年2月26日月曜日

聖霊を求める!

不思議なものです。

心からイエス様とひとつになりたい、十字架を負いたいと願うのに、

いざ宿題はめんどくさくて、すぐイライラして、、

罪をあがなわれたイエス様を思って涙を流すのに、同じ過ちをまた犯して、、

僕ははっきりと自覚しなきゃいけません。

罪にある自分はイエス様より罪を愛してるんですね。

不信仰になるって、信じてないってこと、イエス様を信じてないのと一緒なんですよね。

そのぼくのために来たのがキリストであって、その罪を引き受け、十字架にかかり、復活されたわけです。

このかたを信じたい。そう思うけれども、罪を愛してしまう。

心では神の律法にしたがい、体は罪の律法に従っているということです。

そう思う度に十字架が思い起こされるわけです。

あぁ、このぼくのために死んだんだな。と思うのです。

だから、この方を主と告白して生きるのは、立派でもなんでもなく、もはやそうせざるを得ないし、喜んでそれぐらいしたいわけです。

でもそれは信仰生活の一部であって、本当に主を愛してるなら、みことばを実行してるはずなんです。

それが悲しいぐらいできない、してないんですね。

できないというより、してない、ですね。

自らの意思で従わないことを選んだりさえしてしまいます。

だから、どこまでも肉にある僕は罪を愛し、やがて死ぬんだなぁと思います。

そして、ぼくに住む聖霊様は神を愛し、伝道もするし、罪に生きる自分を見て悲しんでるのだろうと思います。そしてこの霊が永遠に生きるだなぁ、とそう思うわけです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」

パウロもこういっている通り、キリストの霊がぼくを動かしているんです。と、同時に罪人である肉の自分も生きているんです。

しかし、何度も書きますが、そのぼくのためにキリストは死に、すでにあがないを完成されたんだなぁ、と思うわけです。

だからこそ、イエス様とひとつになりたい。

聖霊を受けなさい。とイエス様は言われましたけど、本当に受けさせてほしい。

聖霊で満たしてほしい。心からそう思う自分がいるのに、いざそう祈ろうとなると祈らず好きな人のことばっか祈る。

こんなぼくなんです。

でももうイエス様にすがるしか無いのはわかりましたから、聖霊を求めていきたいと思います。

聖霊をうけて

不思議なものです。
心からイエス様とひとつになりたい、十字架を負いたいと願うのに、
いざ宿題はめんどくさくて、すぐイライラして、、

罪をあがなわれたイエス様を思って涙を流すのに、同じ過ちをまた犯して、、

僕ははっきりと自覚しなきゃいけません。

罪にある自分はイエス様より罪を愛してるんですね。

不信仰になるって、信じてないってこと、イエス様を信じてないのと一緒なんですよね。

そのぼくのために来たのがキリストであって、その罪を引き受け、十字架にかかり、復活されたわけです。

このかたを信じたい。そう思うけれども、罪を愛してしまう。

心では神の律法にしたがい、体は罪の律法に従っているということです。

そう思う度に十字架が思い起こされるわけです。

あぁ、このぼくのために死んだんだな。と思うのです。

だから、この方を主と告白して生きるのは、立派でもなんでもなく、もはやそうせざるを得ないし、喜んでそれぐらいしたいわけです。

でもそれは信仰生活の一部であって、本当に主を愛してるなら、みことばを実行してるはずなんです。

それが悲しいぐらいできない、してないんですね。

できないというより、してない、ですね。

自らの意思で従わないことを選んだりさえしてしまいます。

だから、どこまでも肉にある僕は罪を愛し、やがて死ぬんだなぁと思います。

そして、ぼくに住む聖霊様は神を愛し、伝道もするし、罪に生きる自分を見て悲しんでるのだろうと思います。そしてこの霊が永遠に生きるだなぁ、とそう思うわけです。


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」


パウロもこういっている通り、キリストの霊がぼくを動かしているんです。と、同時に罪人である肉の自分も生きているんです。

しかし、何度も書きますが、そのぼくのためにキリストは死に、すでにあがないを完成されたんだなぁ、と思うわけです。

だからこそ、イエス様とひとつになりたい。

聖霊を受けなさい。とイエス様は言われましたけど、本当に受けさせてほしい。


聖霊で満たしてほしい。心からそう思う自分がいるのに、いざそう祈ろうとなると祈らず好きな人のことばっか祈る。

こんなぼくなんです。

でももうイエス様にすがるしか無いのはわかりましたから、聖霊を求めていきたいと思います。


2018年2月25日日曜日

確信を伝える

3/31にコンサートすることになりました。

僕が企画させてもらうことになりました。

たくさんの友達を誘っているんですが、来てくれそうです。


まだなにも決まってなくて、決まりそうもなくて、早くも焦りが出て来ましたが、全体的な方向性としては前から決まってるんですよね。

まず、イエス様のことをはっきり主と告白するということです。

何かと人に受け入れてもらうために、ぼやかしてキリストを伝えているように感じることがありますが、それは一切やめてもらいます。

「人のために愛を届けるコンサート」なんてものは、世に腐るほどあるのでそんなこともしません。

ただ僕たちはイエス様の愛に出会って本当に嬉しい、これを知ってほしい。そういうスタンスで、キリストに感謝する意思表示をみんなの前でする。みたいなコンサートにしたいです。

「あなたは愛されている」と伝えるというより、「キリストの愛に出会えて私は本当に嬉しい」ということを伝える、と表現すればいいですかね。(そしてこの愛であなたは愛されていると伝たい。)

何が言いたいかというと、イエス様にたいする確信と愛を告白すること。人のためにではなく、主のためにコンサートをするということです。

だから、証もしてもらいます。

ただし、ごり押しでキリストを信じろ~!!!うぉー!!

みたいなこともしたくはないです。

なぜならそれをしたところで救われないからです。

熱意と根性で救われるならどれだけ楽でしょうかね。

だから、ここにしか救いはない、これを信じろ!!!!

というのは、まぁ、真実なんですが、そういう面を強調したくもありません。

繰り返しになりますが、「僕はキリストに出会えて本当によかった。」というのを歌にのせて神様に感謝するコンサート。そして、この喜びを知って受け入れてほしい。と伝える。

みたいな風にしたいです。

世の中にはキリスト教より論理立った哲学が山ほどありますし、キリスト教はよく理解できないことが確かにあります。

しかし、高校生たちを見てて思うのは、確信というものが無いなぁということです。

信じれるものがない。軸がない。

だから、信じるのも軸も自分自身だと言い始めるんですね。

この「確信」というのを伝えたい。

だからこそ、変に伝えよう伝えようとするのではなく、イエス様に心ら賛美している姿を見て、その確信を見てもらうのが、伝道になるのかなぁ。と思うわけです。

伝えることに比重をおくのではなく、神様にたいする心からの賛美に比重をおくということですね。

いやー、ど偉いこといったけど、なかなかぼくもボケーとしながらドラム叩いてるんですがね。

あと、まだプログラムなにも決まってないんですけどね。笑

答えはもうすでに出てる

伝道する上での悩みとか、あーでもないこーでもないと、つらつら書いていますが、結局答えはもうわかっていて、それを信じて進めないだけなんですよね。


福音を伝えるって、霊の世界での戦いだなとは思いました。
救おうとしてるイエス様VSそうさせまいとするサタン。
主はすでに勝利をとられたとありますが、イエス様は僕を通して目の前の人を救おうとしておられるわけです。

だからこそ、自分の頭や理論で話すのではなく、イエス様が働かれるように、イエス様の働き手として、伝道しないといけないわけです。それが俺にとっても祝福なんです。

そして、色々と悩むことがたくさんありますが、その悩みすべてが順繰り回って何度も同じことを悩んでは答えを見つけ悩んでは答えを見つけ、、、という感じなんですね。

結局答えはもうわかっていることなんです。

主に委ねて、信頼して自分は喜びをもって福音を伝える。
そのために祈る、聖霊に満たされるために祈る、聖書を読む。
自分のうちにみことばを蓄える。

腐るほど聞いてきたことですけど、結局これなんですね。

祈って聖書を読んで聖霊に委ねる。

自分がイエス様に生きる。

という、これだけのことなんです。

できなければ、祈ればいい。

これだけなんですよね。

一言で言えば、信じる。ということですかね。

主に信頼する。

簡単なことなんです。

それが難しいけど、だからこそ、聖霊を求ていきたいとおもいます。


2018年2月20日火曜日

一周まわって

昔からずっと思ってました。

「キリストがあなたの罪のために十字架にかかり死んでよみがえったんだ!」 

とかいう不器用な伝道の仕方はやめた方が良いと。


まっすぐ語りすぎたらある人にとってはつまずきだし、反発を食らうのは当然で、なぜそんなことをいちいちするのかと思ってました。 

伝えかたってもんがあるんだと思ってました。

だけど気づいたんですね~。

キリストの言葉をまっすぐ伝えるすばらしさです。

イエス様も、わたしは私のことを語るのではなく、父から受けることばをそのまま話すのですと言われました。

そして何よりも、

ひたすら分かりやすいように、

納得してもらえるように、

どれだけ工夫して伝えても、

得られるのは同意と納得であって、救いではないんです。

そして深層心理にはバカなことを信じてると思われたくない、いたって普通だ。ということを示そうとしている自分がいたんだと思います。

伝道って人のためではないな~と最近思います。

死ぬにしても生きるにしても、主のためだと聖書にあります。

あなたがたはすべてのことを主のためにしなさい。地上のことではなく、天のことを思ってしなさい。

こうもかいてあります。

ある程度の伝えかたの工夫ってのは必要ですけど、

ただ主に喜ばれるためにするだけですよね

2018年2月14日水曜日

基本的に戦い

基本的に伝道は戦いだと実感してます。

自分の思索との戦い。
そして周りのありとあらゆる様々な反応。
世の中の正義や価値観や倫理観。
そして、ここでは言えないようなこともね。

真実なんて誰も求めやしない。
求めるのは幸せだけですよね。
考えすぎないで、安心と幸せがあればそれでいいんです。
毎日を生きていければ、それでいいんですよね。

僕だってそういう面もあります。


ただし、高校生たちはそんなこと言うのは頭おかしい奴だと思っているし、そんな答えなんてないとか言うわけです。

興味ないんですよね。神の存在とか罪の赦しとかに。


どんどんこうやって人をさばき高慢になっていき、自分自身もイエス様から離れて自分の思索がやられていくわけです。

あなたがたはただでうけたのだから、ただで返しなさい。

聖書の言葉です。

2018年2月13日火曜日

救いへの確信

僕は必ずクラスメートが救われると信じています。

高校卒業までにと言われたら、確信できるほどではありませんが。

しかし必ず救われて教会に繋がり、一緒に礼拝をして、賛美をして、祈って、聖書を読んで、そしていつかは一緒に神様の働きをしたいな、伝道を一緒にしたいな、何て思って神様に期待してます。

ほんと、夢ですよね。

友達とこんなことができたら。

夢じゃない!現実になるんだ!

というのは、わかってます。

たんに夢に思うほど素晴らしいということです。

こういう細かい説明はなくて良いと思うのですがね。

さて、救いへの確信と言うことですが、何ヵ月か前に十字架のことを話したことがありました。本当に散々で、もう思い出すだけで発狂したくなるような感じで終わりました。

無様でしたね。ほんと死にたくなるほどです。

そして話し終わった後、席に戻って座ってがっかりしてると、しくしく涙が出るわけです。

ほんと辛かったですね~。


その時に聖書を読むとこの箇所が飛び込んできたんです!

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ー主の御告げー

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、私の思いは、あなたがたの思いよりも高い。

雨や雪が天から降って元に戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔くものには種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところには帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。



この言葉には、ほんと、励まされましたね。

神様の道は本当に高いんだな。そう思います。

昔の歌集の通りです。

主よ憐れんでください、あなたとひとつになりたい。
主よ用いてください、通りよき管として。



アーメン


もう少し、宿題ガンバろうと思います。

世界が違いすぎる

教会や家で神のことを、キリストのことを当たり前のように生活の中で聞き、話し、ジッサイニ体験もしているわけですが、

学校では、そういうことがいっっさい無いわけで、そういうこと言うとオカルトとか宗教になるわけです。

そういう学校の世界で信仰を保つというのは、そんな簡単なことでもありませんね。

片足は世の中に浸かって、片足キリストに浸かるようなのだけにはなりたくない。

そう思って来たわけです。

だから、はっきりと十字架の死と復活の伝道もしました。


けれども、倫理の授業や保健の授業で、人生観のことを学んだり、宗教を学んだり、先日話したアンケートの答えを読んだりしていると、ものすご~く重くて暗い気持ちになります。


一体自分は何をしてるんだろうと。

イエス様に対する確信は揺るぎませんが、一宗教の一主張に過ぎない。そう思われるのかな、、何て思うわけです。

だから余計に熱をいれて話しても、もっとそう思われるのかな、何て思うわけです。



だから、今はなんと思われてもいいから、単純に自分が信じていることをまっすぐ話したいと思っています。イエス様に喜んでもらうためにですよね。

世界が本当に違うんですよね。

どれだけ信仰とか福音のために生きるとはいっても、実際問題として宿題が山ほどあるし、従わないといけない世の中の価値観があるわけです。


「すべては福音のために」といって、何でもやれたらそれはいいんですけど、なんか僕としては「世の中で生きる」というのと「神様と生きる」というのが繋がらないんですよね。


本当は神様のために、宿題もある程度の校則も、世の中の正しさや優しさなどにも従うところまでは従う、譲歩するところまでは譲歩する。それでいいんでしょうけど、僕はうまくそこを繋げられないんです。

そして、片足世の中の浸かって片足キリストに浸かるのは嫌だ。と言っていましたが、僕自身、片足罪にまみれて罪を楽しみながら、片足キリストのために福音のために涙を流す訳です。

このアンケートのやつが終わったら、もう一回チャペルの形を考え直そうと思います。

もう十字架のことは伝えました。はっきりと伝えるべきことは伝えました。あとは、自分がみ言葉に生きるかどうかだと思います。

「私は神様のためにあれをしましたこれをしました。」しかし神様は「わたしはお前を知らない。不法を為すども、私から離れていけ」


すごくこの聖書箇所が気になります。


行動が大切なことぐらい当たり前なことですよね。福音を伝えるために口を開くことは、何も行動で示さないことを是認してるわけではないですし、、



とにかく、もう一踏ん張り。

アンケートに対する聖書の答えをしっかり聖書から、イエス様に喜ばれるようにまっすぐ話したいと思います。お祈りください!

2018年2月12日月曜日

好き放題

結構ブログでは好き放題言いたいこと言わしてもらってますが、学校での生活ではこうはならないように。学校と言うより、私生活ですかね。、、

伝道するにあたって、自分の信仰の持ち方、自分が神の前にどう生きてるのか、とか色々と直面する問題があるので、それを結構書きたい放題かいてるわけです。

まー。そろそろそんなやり方も終わりにしようかなと思ってますら、

⑥『罪』

罪とかいうと、いかにも宗教臭漂う感じしますよね。

罪を許してくださる神に感謝アーメン。


なんてね。


罪、、、、は???


というのが高校生たちの正直な感想ではないでしょうか。

と、同時に人って結構どうしようないぐらい汚いところがあるんだな。

なんてこともそろそろ感じる人も増えてくるんじゃないですかね。

聖書が言う罪というのは、法的な罪ではもちろんありません。怒りや嫉妬等が罪ですね。

もっというと、罪と言うのは聖書の原語では、ハマルチアといって、的はずれと言う意味です。

的がずれてるということです。

日本で罪と言うと、その人が悪人かのように思われますが、そういって責めたいのではなく、

むしろ、必死に真面目に生きて生きてそうしているのに、いつも満たされないところがあって、それは、「的」がずれてるからだ。というわけなんですね。

それもそのはずですよね。そもそもなんで生まれたのかすらわからないし、その上人が生きる意味は自分で見つけ出さないといけないというね。

まさしくこれが罪なわけです。


人は神によって作られ神のために生きる。神のために生きると言うのは、神のために自爆テロをしろと言うのとはまっったく違います。
神様は僕のことを愛しているからです。


とまあ、神を否定しその存在を意識すらせず、信じないこと。これが罪だと言うわけです。


神様のことを思うと言うよりも、自分のことは自分で決める。自噴の将来自分で決める。のように、すべて自分で決めて自分でやって、自分を神にしているわけです。

これが、自己中心といって罪の元凶みたいなもんですよね。


これが罪なわけです。

だから、神様が僕たちを愛してくれていても、僕たちがそれを拒んでるような感じになってるわけです。

罪を犯さなければ神様のところ、天国に行けます。神様は僕たちのことを愛してはいるけど、同時に正義の方だから、悪のままで天には入れませんよね。

言いたいのはそういうことです。



と、いうことで、全人類地獄行きなんですね。

神様はそれでも僕たちを愛してくれてます。

さてどうしよう、ということで、十字架があるのです。

アンケート

学校でチャペルをやってるんですが、アンケートをとることにしたんですね。

神はいると思うかとか死刑の是非とか、、

何故そういうことをするに至ったかの経緯を書きたいと思います。

まず最初にチャペルの時間はひたすら自分が神学的なことを(自分も大してしらないのに)クラスメートに伝えてたんですね。
それこそ、今までブログの①~⑤に上げてたようなことですね。

そして気づいたのが、ひたすらこっちが口を開いて開いて開きまくって、相手の言うことや相手の考えには全く耳を貸さなかったな、ということです。

聖書には福音を宣べ伝えなさいとあったり、信仰は聞くことから始まり、聞くことは神のみ言葉によるとも書いてますから、確かに伝道するにあたって、どれだけ避難されても口を開いて伝えることは必要です。

ただし、「お前らが間違いだ!俺たちが正しい!」とかそういった価値観で人の言うことを全く聞かずにいるのはどうかと思いましてね。

イエス様は罪人と食事をしたって、一体これは何を意味してるんですかね?

罪人の話すことにもしっかり耳を傾けていたと思いますよ。そのうえで、真理を伝えたはずです。

クリチャンホーム育ちなのでノンクリを見下したり、敵対心をもったりしがちなんですが、それはお門違いですね。

そして、聖書には言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛し合うではありませんか。ともかいてあります。

非難されても伝えるんだ~❗


と燃えるのは結構なことですけど、実際自分がみ言葉に生きてもいないし、つまずかせるような事ばかりしておいて、立派にみ言葉語っても、ねぇ。

それはすでにいる世の中の宗教家たちだけで十分ですよね。

それで非難されるのは、自業自得なんですよね。

結局、僕はひたすら口で語って語って語り倒して、人の言うことには耳を貸さなかったけれどと、イエス様は口だけの男ではなかった。そして、罪人の言うこと、要するに世の中の空しい哲学にも聞くだけ聞いて、そのうえで、真理を伝えたんだと思います。

聖書には議論家はどこにいる。知者はどこにいる。とか、世の騙し事の哲学に騙されてはいけませんとか、たくさん書いてますから、僕はすごく悩みました。

で、最終的にはアンケートをとるだけとって、みんなの意見や考えを吐き出してもらい、その次にそこから聖書の言葉をまっすぐ、混ぜ物をせずに語ると言うことです。


間違っても相手の意見に乗っかって言い返そうとはしないように、お祈りください。ただ、み言葉を話せるように、ですね。


そして、何よりも、自分がみ言葉にいきると言うことです。

はっきりいってこれも伝道ですからね。

できなくてもいい。ただ憐れんでくださる神に感謝というのもいいけど、罪に死んだ私たちがどうして尚も罪のなかに生きられるでしょうともあるので、


できない自分をあわれむ神というより、憐れんでくださる神によってできると信じたいですよね。

このままだと、自分の信仰は腐りますよ。

なんの行動も自制もない信仰になっちゃいそうです。


とにかく、そんなこんなで、アンケート配りました、