何と、人間の心というものは、通じ合わないものだろう。(中略)考えてみると、「好き」ということも、「嫌い」ということと同じだけ誤解の上に成り立つ感情のような気がする。
「ぼくはこう思ってる、口から出た言葉の数だけ、誤解も多くなるとね。」
どちらも三浦綾子の本の言葉です。積み木の箱(上)と裁きの家です。
簡単に心と心のつながりというけど、言葉を交わさずに通じ合えてると思うのは、 互いの都合のいい誤解の重なりで、 でも言葉を使うほど遠のいていくような気もします。
「だって、人間はね、誰も相手の言うことなんか、聞こうとしてやしないよ。対話と見せかけて、結局は、 自分の言いたいことを押しつけてくるだけだよ」(中略)「 そうだよ。誰もがね、お前はそう言うが、 違うぞと言った顔つきで話をしているよ。対話なんかないよ、 あるのはモノローグだけさ」 (裁きの家)
男も女も、結局は自分が理解「される」ことばかり求めていて、相手を理解しようとすることが少ないのかなー、っと思いました。
自分が主眼で、果たして相手は自分の心に気がつくのか、という観点から心のつながりを推し量るけど、実はそうではなく、 理解されることよりも理解することにもっと大きな意味があるのか なーと思いました。
イエス様は地上に理解者はいませんでした。バプテスマのヨハネも処刑されたし、、、
弟子たちは何も理解しませんでした。
それでもイエス様は弟子や罪人と共に食事をし、話を聞いていたのかなーって思います。
理解し、本当の意味で隣女になったんだと思います。
「解決がなくても、寄り添うことはできる」
なんて言葉ヘドが出るほど大っっ嫌いなんですが、でもたしかに僕たちに解決はありません。
でもこのキリストだけが理解し、寄り添い、解決を与える愛なんだなと思います。
このキリストと心つながることができると思います。
そしてこのキリストを通じて、十字架の愛を通して、お互いの人間関係もすごく強いつながりというか結びつきというか 、まさしく神の家族?のような、心のつながりを感じるわけです。
ここでいう心のつながりは、なんか、一般でいうものとは違って、確かに理解できないところとか、分からないところ、 合わないところがたくさんあるんだけど、 それでもひとつになれる心のつながりを感じるんですね〜。
うまく言葉では言えませんが。
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