不思議なものです。
心からイエス様とひとつになりたい、十字架を負いたいと願うのに、
いざ宿題はめんどくさくて、すぐイライラして、、
罪をあがなわれたイエス様を思って涙を流すのに、同じ過ちをまた犯して、、
僕ははっきりと自覚しなきゃいけません。
罪にある自分はイエス様より罪を愛してるんですね。
不信仰になるって、信じてないってこと、イエス様を信じてないのと一緒なんですよね。
そのぼくのために来たのがキリストであって、その罪を引き受け、十字架にかかり、復活されたわけです。
このかたを信じたい。そう思うけれども、罪を愛してしまう。
心では神の律法にしたがい、体は罪の律法に従っているということです。
そう思う度に十字架が思い起こされるわけです。
あぁ、このぼくのために死んだんだな。と思うのです。
だから、この方を主と告白して生きるのは、立派でもなんでもなく、もはやそうせざるを得ないし、喜んでそれぐらいしたいわけです。
でもそれは信仰生活の一部であって、本当に主を愛してるなら、みことばを実行してるはずなんです。
それが悲しいぐらいできない、してないんですね。
できないというより、してない、ですね。
自らの意思で従わないことを選んだりさえしてしまいます。
だから、どこまでも肉にある僕は罪を愛し、やがて死ぬんだなぁと思います。
そして、ぼくに住む聖霊様は神を愛し、伝道もするし、罪に生きる自分を見て悲しんでるのだろうと思います。そしてこの霊が永遠に生きるだなぁ、とそう思うわけです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」
パウロもこういっている通り、キリストの霊がぼくを動かしているんです。と、同時に罪人である肉の自分も生きているんです。
しかし、何度も書きますが、そのぼくのためにキリストは死に、すでにあがないを完成されたんだなぁ、と思うわけです。
だからこそ、イエス様とひとつになりたい。
聖霊を受けなさい。とイエス様は言われましたけど、本当に受けさせてほしい。
聖霊で満たしてほしい。心からそう思う自分がいるのに、いざそう祈ろうとなると祈らず好きな人のことばっか祈る。
こんなぼくなんです。
でももうイエス様にすがるしか無いのはわかりましたから、聖霊を求めていきたいと思います。
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