学校でチャペルをやってるんですが、アンケートをとることにしたんですね。
神はいると思うかとか死刑の是非とか、、
何故そういうことをするに至ったかの経緯を書きたいと思います。
まず最初にチャペルの時間はひたすら自分が神学的なことを(自分も大してしらないのに)クラスメートに伝えてたんですね。
それこそ、今までブログの①~⑤に上げてたようなことですね。
そして気づいたのが、ひたすらこっちが口を開いて開いて開きまくって、相手の言うことや相手の考えには全く耳を貸さなかったな、ということです。
聖書には福音を宣べ伝えなさいとあったり、信仰は聞くことから始まり、聞くことは神のみ言葉によるとも書いてますから、確かに伝道するにあたって、どれだけ避難されても口を開いて伝えることは必要です。
ただし、「お前らが間違いだ!俺たちが正しい!」とかそういった価値観で人の言うことを全く聞かずにいるのはどうかと思いましてね。
イエス様は罪人と食事をしたって、一体これは何を意味してるんですかね?
罪人の話すことにもしっかり耳を傾けていたと思いますよ。そのうえで、真理を伝えたはずです。
クリチャンホーム育ちなのでノンクリを見下したり、敵対心をもったりしがちなんですが、それはお門違いですね。
そして、聖書には言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛し合うではありませんか。ともかいてあります。
非難されても伝えるんだ~❗
と燃えるのは結構なことですけど、実際自分がみ言葉に生きてもいないし、つまずかせるような事ばかりしておいて、立派にみ言葉語っても、ねぇ。
それはすでにいる世の中の宗教家たちだけで十分ですよね。
それで非難されるのは、自業自得なんですよね。
結局、僕はひたすら口で語って語って語り倒して、人の言うことには耳を貸さなかったけれどと、イエス様は口だけの男ではなかった。そして、罪人の言うこと、要するに世の中の空しい哲学にも聞くだけ聞いて、そのうえで、真理を伝えたんだと思います。
聖書には議論家はどこにいる。知者はどこにいる。とか、世の騙し事の哲学に騙されてはいけませんとか、たくさん書いてますから、僕はすごく悩みました。
で、最終的にはアンケートをとるだけとって、みんなの意見や考えを吐き出してもらい、その次にそこから聖書の言葉をまっすぐ、混ぜ物をせずに語ると言うことです。
間違っても相手の意見に乗っかって言い返そうとはしないように、お祈りください。ただ、み言葉を話せるように、ですね。
そして、何よりも、自分がみ言葉にいきると言うことです。
はっきりいってこれも伝道ですからね。
できなくてもいい。ただ憐れんでくださる神に感謝というのもいいけど、罪に死んだ私たちがどうして尚も罪のなかに生きられるでしょうともあるので、
できない自分をあわれむ神というより、憐れんでくださる神によってできると信じたいですよね。
このままだと、自分の信仰は腐りますよ。
なんの行動も自制もない信仰になっちゃいそうです。
とにかく、そんなこんなで、アンケート配りました、
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