2018年7月31日火曜日

人間主義

ヒューマニズムは非常に深いし、感動するものですが、どこか人間を肯定しているような気がします。

人間を否定したいわけでもなく、肯定したいのでもなく、真理として、人間は罪人です。

そもそも罪人だから、人としての存在を肯定しても、その罪の部分を含めて肯定するわけにはいかないと思うんです。

人間の愛や心は信じるに値するかもしれません。でも完璧ではありません。

パスカルも言ってたように、人は人の惨めさや汚さを直視できない弱さがあると思います。

三浦綾子の本を読めばその気持ちもわかると思います。

人の心はとにかく汚れていると思います。

感動する話や人間の愛に打たれることはあります。でも、人間は罪人です。でも、人の心は人に見せたくないような汚い思いで溢れています。

その人間の罪の部分が人としてのあらゆる問題の根源なのに、善らしきもの部分ばかりを誇張して人間の罪を分からなくするから、傷つく人も増えるのだと思います。


人間絶対主義というのは、想像を絶するほどの高慢の上に成り立っているのだなとすごく今思いました。

神が僕たちを愛してくれたのは、神が僕たちを作ったからで、1%も神の前に誇れるものはない。

人間を信じたい気持ちを否定したくはないです。でも、真実はどちらかです。

この罪人のために身代わりに罪を引き受けたイエス様の愛というのは、なんて計り知れないのだろうと改めて思います。

倫理??

倫理・・・
①人間生活の秩序つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道
②倫理学の略

倫理学・・・
人間の行為や社会関係を支配する道徳について、その起源・発達・本質・意味を研究する学問。


高校の文系では倫理を習います。言い換えると哲学のようなものです。

倫理は上の辞書の言葉によると〈人間の実践すべき、「踏み行うべき」規範の筋道〉です。

これは、あくまで、「踏み行うべき」ものの筋道であって、踏み行わなければ、本末転倒ですよね。

さて、倫理や哲学に興味をもち始める人たちがぼくの年ごろには多いと思いますが、少し気になることがあります。

一人一人が哲学や倫理に熱心になるのは構いませんが、その理論や思想を「理解する」ことで「人としての格」が上がるわけではないと思います。

場合によれば上がるかもしれません。でも、「理解した」から人より偉いとか、人としての根本を知ってるのは俺の方だといって、偉そぶりを〈たとえ心の中ででも〉するのであれば、それは倫理から外れています。

数学や英語とはちょっと違って、倫理の内容はもっと、人としての根本を扱うものだからこそ、テストの点で測るのはあくまで知識だけであって、その人の人間性を測るものであってはいけないと思うんですよね〜。うんうん。



そして、倫理の教科書や図説には沢山の哲学者たちがありとあらゆる思想を述べていますが、それを一生懸命に読むことは構わないのだけど、でもそれは人の考えの受け売りであって、自分で考えて、自分自身が「人としての根本」と向き合わなければ、意味がないと思うんですよね。

受身で取ってつけたように人の考えを、しかも「自分と共感するものだけ」取り入れていては深さはないだろうし、それは自分の都合のいい方向に生きていくのを加速させてしまうだけのような気がします。

これも数学や英語とは違って倫理にはこれといった答えは書いてないから、教科書が全てではないし、あくまで自発的に考えるものだと思います。

そして、「神の存在」には〈必ず〉答えがあるわけで、いるなら人形のように飾られてるだけではなく、〈意志〉というものがあるわけで、でも人間は神の意志ではなく、自分の意志しか考えていない。そして神がいるならそこには〈人格〉があるわけで、その人間をどう思って、どうしようとしているのかという真実があるわけです。

そして、哲学者の中には死と向き合っている人もいますが、ほとんどの人たちは「どのように生きるか」を考えて、死後のことなんて誰も考えない、もしくは考えてもどうにもならんさという。でもそこにも必ず答えがあります。

人それぞれが正解じゃ困るんですよ。人それぞれじゃ困る!!!!

一つしかない答えというものがあるからです。


だから、共感する哲学だけを取り込むのではなく、かと言って共感しないのを取り込むのでもなく、何が真理なのか、何が本当の答えなのかを知りたいと思う心がまず必要だと思うんですよね。その上で倫理なり哲学書なり読めばいいと思います。


自分の都合のいい真実ではなく、真実を真実として求める心が必要ですよね。

隣女ではなく隣人

↓のブログで、イエス様は本当の意味で隣女になったと書いてますが、隣人ですね。すいません。(笑)

心が通じる

何と、人間の心というものは、通じ合わないものだろう。(中略)考えてみると、「好き」ということも、「嫌い」ということと同じだけ誤解の上に成り立つ感情のような気がする。

「ぼくはこう思ってる、口から出た言葉の数だけ、誤解も多くなるとね。」


どちらも三浦綾子の本の言葉です。積み木の箱(上)と裁きの家です。

簡単に心と心のつながりというけど、言葉を交わさずに通じ合えてると思うのは、互いの都合のいい誤解の重なりで、でも言葉を使うほど遠のいていくような気もします。

「だって、人間はね、誰も相手の言うことなんか、聞こうとしてやしないよ。対話と見せかけて、結局は、自分の言いたいことを押しつけてくるだけだよ」(中略)「そうだよ。誰もがね、お前はそう言うが、違うぞと言った顔つきで話をしているよ。対話なんかないよ、あるのはモノローグだけさ」  (裁きの家)

男も女も、結局は自分が理解「される」ことばかり求めていて、相手を理解しようとすることが少ないのかなー、っと思いました。

自分が主眼で、果たして相手は自分の心に気がつくのか、という観点から心のつながりを推し量るけど、実はそうではなく、理解されることよりも理解することにもっと大きな意味があるのかなーと思いました。


イエス様は地上に理解者はいませんでした。バプテスマのヨハネも処刑されたし、、、

弟子たちは何も理解しませんでした。

それでもイエス様は弟子や罪人と共に食事をし、話を聞いていたのかなーって思います。

理解し、本当の意味で隣女になったんだと思います。

「解決がなくても、寄り添うことはできる」

なんて言葉ヘドが出るほど大っっ嫌いなんですが、でもたしかに僕たちに解決はありません。

でもこのキリストだけが理解し、寄り添い、解決を与える愛なんだなと思います。

このキリストと心つながることができると思います。

そしてこのキリストを通じて、十字架の愛を通して、お互いの人間関係もすごく強いつながりというか結びつきというか、まさしく神の家族?のような、心のつながりを感じるわけです。


ここでいう心のつながりは、なんか、一般でいうものとは違って、確かに理解できないところとか、分からないところ、合わないところがたくさんあるんだけど、それでもひとつになれる心のつながりを感じるんですね〜。


うまく言葉では言えませんが。

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三浦綾子の本

いま、三浦綾子さんの本にはまって読んでるんですが、罪がすごくはっきり書かれています。

罪っていうのは心に働くもので、心の中の汚い罪が克明に書かれているので、少し読むのがきつい時もあります。

自分がこれまでどれだけ浅く生きてきたかを感じらされるし、男性として、尊敬できるところや共感できるところが多いですね。

まだそれほどたくさん読んでるわけではないですが。。



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2018年7月30日月曜日

Fwd: お久しぶりです

なからくブログアップしてませんでした。

すいません。

その間に18歳になってしまいました。

18歳は大人ではないけれども、その境界線には入った年齢だと思います。

大人の世界に入っていくわけですが、いつまでも純粋なバカでいたいです。

キリストに真っ直ぐで単純なものでありたい。

変に知識で固めた言い訳めいた大人になりたくない!!


そうは言うものの、もうその兆候がでてるんですね〜これがまた。


あーなんて自分の心は言い訳めいた生き方をしてるのだろうと思いますし、不潔で汚い心なんだろうと思いますが、それでもそこで折れたくないし、人ってそんなもんだよ〜あはは、なんてなりたくないし。


でも、そうやって自分の力で善の領域に達しようとして失敗してきたので、もうこれでいいのだと思います。

このウンコのような俺を愛して命まで捨てたイエス様を信じるって言うのは、そういうことなのかもしれません。

もうこれで愛されてる、このままで愛されてる。

実はこの言葉あまり好きじゃなくて、甘ったれたこと言ってねぇで、だったら悔い改めの実を見せてみろよこん畜生。と思っていたのですが、なんか、本当に、これで愛されてるんだな、この存在を喜んでるキリストがいるんだなーと思うと、この深さに感動します。



まとまりのない話でしたが以上です。