2018年6月28日木曜日

上にたちたい

最近つくづく思う。

人は人の上に立ちたいと思うものなんだなーっと。

スポーツの大会も学校のテストも何番だとか人と比べなきゃ生きていけないのでしょう。

下になることを極端に怖がり、見下されると怒り、上に立つとあぐらをかいて余裕をみせる。そして余裕があるときは優しくできるし人を赦せる。

そしてプライド。
僕にも少なからずプライドというものがあって、ものすごく邪魔です。バカにされても主にあって喜んでいられないものか。。。

何でも言い返したくなるんですよ。
俺が正しい、お前ら間違えてるよって言いたくなるんですよ。(学校の話)

誇りという名のプライドすら要らないと思うけど、まあそこは世の中では必要とされてることなんでしょうか?

そして何よりも傲慢という名のプライドなんか捨てちまえって思いますね。


あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。


イエス様の望んでいる姿は人が求める姿と大きく違うな~っと思いますね。


人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。


イエス様は口だけじゃなくて事実行動で示し、十字架で命まで捨てたと思うと改めて感動です。

神の子であるキリストが下の下の地獄まで落ちた。だからこそ神はキリストを高くあげられたともある。。

王座の王座の上に君臨している父なる神が絶対的権威をもっている。というのも、なんか僕にとってはすごく安心です。


とりあえず、プライドを捨てたいです。

2018年6月10日日曜日

知ることと個人的に知ること

間違えて送信したので続きから。

あーだこーだと考えた結果だろうし、自分もあーだこーだと考えるは好きです。

大人にもなれば、もう考えることは減って諦めが増えるのでしょうか??まあそれは置いといて。

でも、すごく世間(学校の人たち)に多いなぁ~と思うのは、表面上の事実だけを知って、そこから判断しているという事です。

キリストに対しては特に敏感にそれを感じます。

宗教であり、キリスト教徒は日本では少ないし、色々なイメージやレッテルもあり、ある事実に対しての伝え方がかなり偏っていて、それを鵜呑みにしていると思いますね。


まず、イエス・キリストについての周りの付属品について知るのではなく、イエス・キリスト自身を見つめてほしいし、彼自身を伝えるのが僕らクリスチャンの務めですね!

知ることと個人的に知ること

新井牧師が書いていた事で共感したことのひとつ。

知ることと個人的に知ることは決定的に違うということです。


いまの時代は腐るほど情報で溢れていて、知ろうと思えば何でも知れますし、知った気になれる。

テストなんかでも、100点取ればその教科は知っていると見なされる。

今の若い世代は悟り世代と言われて世の中を悟っていると言われていますが、あながち間違いではありません。でも、決定的な差は、「知った気でいる」ということだと思います。

というのは、例えば世界史のテストで100点とっても、神学大全を書いたのはトマスアクィナス!だとか、悪人正機を説いたのは親鸞!とか、キリストは自らを神と名のり十字架の死からパウロが贖罪説を説き、後にローマ帝国により世界規模の宗教となった!
など、たくさん知識は知っていても、

「トマスアクィナス」自身がどんな人で、「親鸞」自身がどんな人で「イエス・キリスト」自身がどんな人か、知ってる人は少ないです。

表の事実を知ることと、その人を個人的に知ることは全く違うというのです。

律法学者はキリストを知っていながら、知りませんでした。それが顕著に現れている例だと思いますね。

人それぞれ考える哲学、信じる宗教があります。頭の理論であーだこーだと考えたけっかだろ


また最近さぼってました

すいません、また最近さぼってました。

読んでくれてたかた、申し訳ないです。

いまは新井牧師の、「人生は出会いで決まる」という小冊子から、チャペルをしています。

といっても読むだけです笑


少し難しいかな~っと思いつつ、すごく個人的に感動したので、読むことにしました。

でもやってみたら、みんな予想以上に聞いてます。感謝です。

全校の前で話す機会が来るかもしれません。その時はお祈りください。!