2018年6月10日日曜日

知ることと個人的に知ること

新井牧師が書いていた事で共感したことのひとつ。

知ることと個人的に知ることは決定的に違うということです。


いまの時代は腐るほど情報で溢れていて、知ろうと思えば何でも知れますし、知った気になれる。

テストなんかでも、100点取ればその教科は知っていると見なされる。

今の若い世代は悟り世代と言われて世の中を悟っていると言われていますが、あながち間違いではありません。でも、決定的な差は、「知った気でいる」ということだと思います。

というのは、例えば世界史のテストで100点とっても、神学大全を書いたのはトマスアクィナス!だとか、悪人正機を説いたのは親鸞!とか、キリストは自らを神と名のり十字架の死からパウロが贖罪説を説き、後にローマ帝国により世界規模の宗教となった!
など、たくさん知識は知っていても、

「トマスアクィナス」自身がどんな人で、「親鸞」自身がどんな人で「イエス・キリスト」自身がどんな人か、知ってる人は少ないです。

表の事実を知ることと、その人を個人的に知ることは全く違うというのです。

律法学者はキリストを知っていながら、知りませんでした。それが顕著に現れている例だと思いますね。

人それぞれ考える哲学、信じる宗教があります。頭の理論であーだこーだと考えたけっかだろ


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