2018年3月27日火曜日

①神はいるのか

写真で申し訳ありません。

変わらないなぁ

アンケートの答えは、今日中にブログにあげたいと思います?

さて、最近思うのは、僕はいつまでたっても同じことでぐずぐずしてるなと言うことです。



成長しないなぁ。変わらないなぁということです。


それにたいして様々な理由付けや立派な言い訳とか、それでも神様が~とか話し出したらきりが無いけど、本当に神様が働かれるなら、変わるはずですよね。

何が変わらないって、朝起きて宿題をしないとか、、他にも色々、罪ですね。

罪を完全に無くすことはできないにしても、我慢できるところで我慢しないと言うか、もはや罪を犯さないようにしようという意識が無くなったという感じです。


それでいて、聖霊が働かれるといって、罪をおかす自分を是認してるような気がするんですよね。


まー、最近こそは宿題をするようにはなったけど、まだまだだし頑張りたいと思います。

自制と忍耐力ですね。


40日断食できないのは仕方ないにしても、1日目の1食目のお菓子を我慢できなかったら、それはもはや断食する気が無いってことですよね。それでいて、弱い私を赦してください。アーメン。って祈るみたいな、そんな感じです。今の僕は。

2018年3月26日月曜日

お久しぶり

いやー、お久しぶりですね。

学校のチャペルでやったアンケートの答えをあげていきたいと思います。

まずは、神はいるのか、からです

2018年2月26日月曜日

聖霊を求める!

不思議なものです。

心からイエス様とひとつになりたい、十字架を負いたいと願うのに、

いざ宿題はめんどくさくて、すぐイライラして、、

罪をあがなわれたイエス様を思って涙を流すのに、同じ過ちをまた犯して、、

僕ははっきりと自覚しなきゃいけません。

罪にある自分はイエス様より罪を愛してるんですね。

不信仰になるって、信じてないってこと、イエス様を信じてないのと一緒なんですよね。

そのぼくのために来たのがキリストであって、その罪を引き受け、十字架にかかり、復活されたわけです。

このかたを信じたい。そう思うけれども、罪を愛してしまう。

心では神の律法にしたがい、体は罪の律法に従っているということです。

そう思う度に十字架が思い起こされるわけです。

あぁ、このぼくのために死んだんだな。と思うのです。

だから、この方を主と告白して生きるのは、立派でもなんでもなく、もはやそうせざるを得ないし、喜んでそれぐらいしたいわけです。

でもそれは信仰生活の一部であって、本当に主を愛してるなら、みことばを実行してるはずなんです。

それが悲しいぐらいできない、してないんですね。

できないというより、してない、ですね。

自らの意思で従わないことを選んだりさえしてしまいます。

だから、どこまでも肉にある僕は罪を愛し、やがて死ぬんだなぁと思います。

そして、ぼくに住む聖霊様は神を愛し、伝道もするし、罪に生きる自分を見て悲しんでるのだろうと思います。そしてこの霊が永遠に生きるだなぁ、とそう思うわけです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」

パウロもこういっている通り、キリストの霊がぼくを動かしているんです。と、同時に罪人である肉の自分も生きているんです。

しかし、何度も書きますが、そのぼくのためにキリストは死に、すでにあがないを完成されたんだなぁ、と思うわけです。

だからこそ、イエス様とひとつになりたい。

聖霊を受けなさい。とイエス様は言われましたけど、本当に受けさせてほしい。

聖霊で満たしてほしい。心からそう思う自分がいるのに、いざそう祈ろうとなると祈らず好きな人のことばっか祈る。

こんなぼくなんです。

でももうイエス様にすがるしか無いのはわかりましたから、聖霊を求めていきたいと思います。

聖霊をうけて

不思議なものです。
心からイエス様とひとつになりたい、十字架を負いたいと願うのに、
いざ宿題はめんどくさくて、すぐイライラして、、

罪をあがなわれたイエス様を思って涙を流すのに、同じ過ちをまた犯して、、

僕ははっきりと自覚しなきゃいけません。

罪にある自分はイエス様より罪を愛してるんですね。

不信仰になるって、信じてないってこと、イエス様を信じてないのと一緒なんですよね。

そのぼくのために来たのがキリストであって、その罪を引き受け、十字架にかかり、復活されたわけです。

このかたを信じたい。そう思うけれども、罪を愛してしまう。

心では神の律法にしたがい、体は罪の律法に従っているということです。

そう思う度に十字架が思い起こされるわけです。

あぁ、このぼくのために死んだんだな。と思うのです。

だから、この方を主と告白して生きるのは、立派でもなんでもなく、もはやそうせざるを得ないし、喜んでそれぐらいしたいわけです。

でもそれは信仰生活の一部であって、本当に主を愛してるなら、みことばを実行してるはずなんです。

それが悲しいぐらいできない、してないんですね。

できないというより、してない、ですね。

自らの意思で従わないことを選んだりさえしてしまいます。

だから、どこまでも肉にある僕は罪を愛し、やがて死ぬんだなぁと思います。

そして、ぼくに住む聖霊様は神を愛し、伝道もするし、罪に生きる自分を見て悲しんでるのだろうと思います。そしてこの霊が永遠に生きるだなぁ、とそう思うわけです。


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」


パウロもこういっている通り、キリストの霊がぼくを動かしているんです。と、同時に罪人である肉の自分も生きているんです。

しかし、何度も書きますが、そのぼくのためにキリストは死に、すでにあがないを完成されたんだなぁ、と思うわけです。

だからこそ、イエス様とひとつになりたい。

聖霊を受けなさい。とイエス様は言われましたけど、本当に受けさせてほしい。


聖霊で満たしてほしい。心からそう思う自分がいるのに、いざそう祈ろうとなると祈らず好きな人のことばっか祈る。

こんなぼくなんです。

でももうイエス様にすがるしか無いのはわかりましたから、聖霊を求めていきたいと思います。


2018年2月25日日曜日

確信を伝える

3/31にコンサートすることになりました。

僕が企画させてもらうことになりました。

たくさんの友達を誘っているんですが、来てくれそうです。


まだなにも決まってなくて、決まりそうもなくて、早くも焦りが出て来ましたが、全体的な方向性としては前から決まってるんですよね。

まず、イエス様のことをはっきり主と告白するということです。

何かと人に受け入れてもらうために、ぼやかしてキリストを伝えているように感じることがありますが、それは一切やめてもらいます。

「人のために愛を届けるコンサート」なんてものは、世に腐るほどあるのでそんなこともしません。

ただ僕たちはイエス様の愛に出会って本当に嬉しい、これを知ってほしい。そういうスタンスで、キリストに感謝する意思表示をみんなの前でする。みたいなコンサートにしたいです。

「あなたは愛されている」と伝えるというより、「キリストの愛に出会えて私は本当に嬉しい」ということを伝える、と表現すればいいですかね。(そしてこの愛であなたは愛されていると伝たい。)

何が言いたいかというと、イエス様にたいする確信と愛を告白すること。人のためにではなく、主のためにコンサートをするということです。

だから、証もしてもらいます。

ただし、ごり押しでキリストを信じろ~!!!うぉー!!

みたいなこともしたくはないです。

なぜならそれをしたところで救われないからです。

熱意と根性で救われるならどれだけ楽でしょうかね。

だから、ここにしか救いはない、これを信じろ!!!!

というのは、まぁ、真実なんですが、そういう面を強調したくもありません。

繰り返しになりますが、「僕はキリストに出会えて本当によかった。」というのを歌にのせて神様に感謝するコンサート。そして、この喜びを知って受け入れてほしい。と伝える。

みたいな風にしたいです。

世の中にはキリスト教より論理立った哲学が山ほどありますし、キリスト教はよく理解できないことが確かにあります。

しかし、高校生たちを見てて思うのは、確信というものが無いなぁということです。

信じれるものがない。軸がない。

だから、信じるのも軸も自分自身だと言い始めるんですね。

この「確信」というのを伝えたい。

だからこそ、変に伝えよう伝えようとするのではなく、イエス様に心ら賛美している姿を見て、その確信を見てもらうのが、伝道になるのかなぁ。と思うわけです。

伝えることに比重をおくのではなく、神様にたいする心からの賛美に比重をおくということですね。

いやー、ど偉いこといったけど、なかなかぼくもボケーとしながらドラム叩いてるんですがね。

あと、まだプログラムなにも決まってないんですけどね。笑

答えはもうすでに出てる

伝道する上での悩みとか、あーでもないこーでもないと、つらつら書いていますが、結局答えはもうわかっていて、それを信じて進めないだけなんですよね。


福音を伝えるって、霊の世界での戦いだなとは思いました。
救おうとしてるイエス様VSそうさせまいとするサタン。
主はすでに勝利をとられたとありますが、イエス様は僕を通して目の前の人を救おうとしておられるわけです。

だからこそ、自分の頭や理論で話すのではなく、イエス様が働かれるように、イエス様の働き手として、伝道しないといけないわけです。それが俺にとっても祝福なんです。

そして、色々と悩むことがたくさんありますが、その悩みすべてが順繰り回って何度も同じことを悩んでは答えを見つけ悩んでは答えを見つけ、、、という感じなんですね。

結局答えはもうわかっていることなんです。

主に委ねて、信頼して自分は喜びをもって福音を伝える。
そのために祈る、聖霊に満たされるために祈る、聖書を読む。
自分のうちにみことばを蓄える。

腐るほど聞いてきたことですけど、結局これなんですね。

祈って聖書を読んで聖霊に委ねる。

自分がイエス様に生きる。

という、これだけのことなんです。

できなければ、祈ればいい。

これだけなんですよね。

一言で言えば、信じる。ということですかね。

主に信頼する。

簡単なことなんです。

それが難しいけど、だからこそ、聖霊を求ていきたいとおもいます。